皇帝が部屋を出て行ったのは、しっかり夜が明けてからだった。 早朝ともいえない、つまり一般的に人が活動を始める時刻。 朝食を一緒にとるとか言い出したらどうしようかと思ったが、誰を呼ぶこともなく身支度をすませた 皇帝はさっさと出て行った。 そっと顔色を窺ってみたが、別段不機嫌でもなく機嫌が良いわけでもなさそうな、昨夜部屋をおとな った時と同じ表情だった。 読めない。 サラへの咎めもなく、簡素な労いの言葉だけを寄越し。そしてサラが渡した小瓶は返却されなかった。 使ったのかどうかも分からない。 せめてサフィニアがどんな様子か、一言くらいくれてもいいのに。 なので、サラは彼らが退室していったあと、寝室の扉の前で立ち尽くした。 入るのが怖い。 「……」 手をノックの形で固めて、悩んでみる。 あからさまに気遣うというのは、却下だ。かえって気を煩わせるに違いない。ベストなのは、さりげ なく気配りしつつ様子見だが。 無理かな。 サラにそんな高等技術はない。あったらとっくに日本にいた頃に友人ができていたはずだ。 残る選択肢はひとつ。というか、選択肢など端からない。 「サフィニアさま、入りますよ」 いつも通りに。 ベストではないが、ベターな選択だと思う。ていうか、それしかないし。 ココン、と小気味よくノックすると、少しの間のあと明らかにドアに何か投げつけたような衝突音が 響いた。 たっぷり十秒待って追続がないか確認してから、ドアを開ける。 「おはようございます、サフィニアさま」 「………………」 沈黙は重かった。 どんよりと、めちゃくちゃにもつれた銀髪の間から沈んだ、というかやたらと据わった目がサラを睨 みつけていた。 「お顔が怖いですよ、サフィニアさま」 「やかましい」 「下々の言葉を乱用しないでください。はい、お茶いれましたから起きてくださいね。髪梳かします」 寝乱れているシーツに近寄るのは多少の抵抗があったが(だってなんだか生々しい)、サフィニアが しがみついている枕を引き剥がして、子供にしてやるように両手を持って体を起こしてやる。背に枕を 挟んでやって、ようやくサラは一息ついた。 ベッドサイドの小さなチェストに茶の乗った盆を置き、サフィニアがそれに口をつける間、大雑把に 髪を梳かす。あとは身支度のとき、ちゃんとすればいい。 サフィニアがぼんやりと、遅々としたペースで茶を飲み干してしまうまで、サラは顔を洗う桶やタオ ルを用意する。窮屈を好まないというか、サフィニアは基本的に横着なのでドレスは朝食の後と決まっ ている。 「あ、飲み終わりましたね。じゃあ顔を洗ってください。今日の朝食は外でとりましょう。涼しい風が 吹いてますから、バルコニーの方にご用意しておきました」 今日は殊更、動きが鈍い。 ……痛いのかしら。 下世話な心配をしてしまう。いや、痛いのだろうけど。 サフィニアから空になったティーカップを受け取る。彼女をバルコニーに促そうとしたサラは、重々 しく名前を呼ばれて首を傾げた。 「サラ」 「はい?」 「……何か言うことは?」 それは何に対してだろう。 薬を皇帝に渡したこと、知られているのだろうか。 取り繕った表情の下で恐々とするサラに、サフィニアはいっそう声を落とした。 「だから、一夜を過ごした主人への、一言よ」 サラは少し考えてみた。 「それは……つまり初夜を過ごされたことに対しての感想というか、気遣いの一言という意味ですか?」 なるほど、妙に構われるのも居た堪れなくて勘弁してほしいが、何もつっこまれないのもそれはそれ で居心地が悪いと。 納得したサラに、サフィニアが顔を真っ赤にする。 「いいから何か言いなさい!」 「はぁ、じゃあ、お疲れ様でした」 いかにも適当な台詞に、サフィニアが手近の枕を引っ掴んで投げつける。 「むっかつくわね! お前って本当に可愛げがないわ!」 「はいはい、すみません」 飛んできた枕をあえて顔面で受け止めて、サラは吐息をついた。 真剣に心配しても恥ずかしがって怒るくせに。 「まったく……お赤飯でも炊きましょうか?」 「……なによ、セキハンって」 サフィニアが唇を尖らせる。 「わたしの故郷で、女の子が初潮を迎えたとき、お祝いにつくる料理です」 「しょっ……って! とっくにきてるわよ!」 「いえ、女になったという点では同じかなあと」 「全然違う!」 再び顔に血をのぼらせたサフィニアから、枕が飛んできた。 甘んじて受けながら、サラは密かにほっと力を抜いた。 サフィニアは、サラが薬を皇帝に渡したことは知らない。サラはあの小瓶の中身が使われたことすら 分からないけれど――今はまだ、黙っておこう。 打ち明けるのはもう少し、時が経ってからでもいいはずだ。 いま告白してもきっと、傷つけるだけだと思うから。 「さあ、起きてくださいませ。今日も予定が詰まってるんですから」 あらゆる理由をつけて、サラは罪悪感を封じ込めた。 ――最低だ。 朝食の給仕も、基本的にはサフィニアの希望でサラ一人だ。 とはいっても、マーヤもハンナも部屋に控えて立ち働いているので密談に油断はできない。 「そう、あの騎士が近衛隊長だったの」 「はい」 「コンラート・グラフ・エイデン、ね」 ぺろり、サフィニアは行儀悪く指についたジャムを舐めとった。 「サフィニアさま?」 「あの宦官も同じ姓ね」 「……そうでしたっけ?」 サラは記憶力が良くない。 まして、一日で何人もの初対面の人間に会ったのだ。そうそう覚えられるわけがなかった。 「クレア・エイデン。まあ、同じ名前なんてごろごろいるものだけど……」 「血縁だと思うんですか?」 「王宮は狭い世界だもの」 或いは貴族、と言い換えてもいいだろう。 確かに城、ひいては王に仕える者は総じて血縁関係の者が多い。 「でもエイデン家は侯爵だそうですよ。そんなに高位の貴族が宦官になんて……」 「だからでしょ」 サフィニアはお気に入りの果汁入りアイスティーを一口含み、指を立てた。 「後宮っていうのは、次の王の母胎なんだから。誰より早く取り入るにはうってつけじゃない」 「そういうものですか……?」 サラにはいまいち、理解できない。 「そんなにゆっくりのんびり子供が生まれるのを待ったり側妃に取り入るよりは、まともに仕官して功 績を立てた方が早そうですけど」 堅実そうだし。 「そうでもないわよ」 サフィニアはあっさり首を振った。 「皇子が生まれるでしょ? 母親の妃に取り入るでしょ。現皇帝の反対一派の貴族達に根回しして、皇 太子に擁立して、準備が整ったら皇太子があんまり大きくならないうちに皇帝を暗殺するでしょ。ほら、 帝国を牛耳れるじゃない」 「……そんなに上手くいきます?」 「そこら辺は運と実力よ。本人次第。でも、どこの国でもわりと一般的な手法だと思うわ。自分のとこ ろの娘を正妃にできたら言うことないんだけど」 陰謀の? さらりと危険な発言をしたサフィニアを、サラは胡乱な目で見る。 でも、だとしたら。 「エイデン侯爵家が……?」 「そこは様子を見てみないと分からないわ。だけど、コンラートという騎士は陛下の味方……腹心なの でしょうね」 「確信が?」 「だって、次男坊なんでしょ」 「はい」 指でデザートを催促されたので、サラは果物を剥きはじめた。 「侯爵位は嫡男が継ぐから。次男だって爵位は与えられたりもするけど、長男ほどじゃないもの。だと したら、お家の陰謀に加担するよりも、とっくに上り詰めた近衛隊隊長っていう地位を死守した方が得 じゃないの」 これからもっと出世できるだろうし。 「……ですね」 サラは頷いた。 勧められたので、自分で剥いた果物の一欠けらを口に放り込む。酸味が爽やかで美味しい。 布巾で手を拭う。 「ま、しばらくは状況把握が最善かしら」 「はい」 とはいうものの、このサフィニアが大人しくしていられるかは疑問だ。 などと思っていることはおくびにも出さず、サラは従順に頷いた。頷くだけともいえる。 なるようになるだろう。 「では早速。本日は、後宮の妾妃さま方のお茶会があります。彼女たちについての詳細はハンナさんが お話しくださるそうなので、後ほど。トルージアから連れてきた騎士たちは明日には帰路につくそうで す。何か託けがあるなら早めに手紙を書いておいてください。取次ぎにどれくらい時間がかかるか分か りませんので。あとは自由にしていいそうですけど、サフィニアさまが希望されるなら帝国史や帝国の 礼儀作法諸々の教師をつけてくださるらしいです」 どうします? と首を傾げたサラに、サフィニアは面倒くさそうに考え込んだ。 「手紙……は、父さまと母さまに書くわ。エドにはお前が書くのでしょう?」 「はい、すでに」 「余計なことは書かなくていいわよ」 「それは、サフィニアさまがさっそく皇帝陛下にケンカを売った、とかですか?」 「おだまり」 サラは肩を竦めた。 もう書いちゃったし。封もしたので黙っておこう。 「教師は、そうね。午後の数時間だけ、人選と条件はサラに任せるわ」 「また丸投げですか」 「それがお前の仕事でしょ」 「かしこまりました」 まったく。 サラは嘆息してから、気合を入れて背筋を伸ばした。 「それではまず、お召しかえを」 他の妾妃たちになめられないよう、とびきり美しく着飾らなければ。 こうしてサラとサフィニアの後宮生活は幕を開けた。 |