人生って、どこで転ぶか分からないものだ。
 おれのじいちゃんが、よくそう言っていた。おれは「まったくだ」と思ったものだが、その言
葉の意味を真に理解する日は、彼が息をひきとってから数年後、おれが十六になってからだった。
 そして、それがどんなに理不尽なものかを知るには、更にちょうど一週間の時間がいる。
 その間、おれの日常には何一つ変わったことなどなかった。平凡で平穏でありふれた毎日。
 ――けれど、忘れてはいけない。人生に『プロローグ』なんてものはありはしないのだ。どこ
で転ぶか、どう始まってどう落ちるかなんて、誰にも分かりっこない。それを『運命』だなんて
いう奴もいるけれど――本当だったら、おれはぜったいに認めたくないなと思う。

 日ノ輪 寿、十六歳と七日あまり。

 職業は――――奴隷です。

 
            始まりの鐘は突然に


 
 午後の授業は総じて眠いものだというのが寿の持論なのだが、否定できる学生はあまりいない
だろう。
 特に、今日のような古典、それも歳のいったじぃさん先生なんかがゆったりとした口調で長文
を朗読しているときなんかは、最高に寝つきよく眠れるんじゃないかと寿は思う。古典が好きな
方の寿でさえ、うつらうつらと襲ってくる睡魔を無視するのに精一杯なので、勉強嫌いな生徒は
とっくに気持ち良さそうな顔で夢のなかへ逃避している。
 寿は密かに眉根を寄せた。
 ――せっかくひとが我慢しているというのに、けしからん。絶対にノートは見せてやるまい。
 そう決心したところで、授業終了のチャイムが鳴った。のたのたと授業を締めくくる老教師に
気を遣う生徒なんかいない。ぱんぱんに膨らませた風船を弾きわったみたいに、一斉に教室内は
騒がしくなった。
「日ノ輪ぁ」
「んー?」
 寿の友人もその一人で、まだ教師が教壇にいるというのに、席を立って近寄ってきた。手には
既に鞄がある。
 学校の行事暦のうえでは夏季休暇にはいっているのだが、一応は進学高なので補講があるのだ。
しかし、それも午前中の三時間で終わりなうえにHRがないので楽なことは楽だ。いまの古典が、
本日最後の授業だった。
「もう帰んの、川野」
 川野は嬉しそうに頷いた。
「そー。今日、南高の子と遊ぶから」
「みなみこう……」
 ということは、
「合コンか」
 寿は呆れたように、半眼になって友人を見上げた。南高校は、有名なお嬢様学校――つまり女
子高だ。
 にへら、と笑う友人に、寿はげっそりする。
「そこまでして彼女ほしい?」
「当たり前じゃん。けんこー的な高校生男子なら当然」
「へぇ、そうですか」
 寿は溜め息をついた。
 どうもこの辺、友人とは意見が合わない。単に寿が淡白なだけかともしれないが、きゃいきゃ
いと騒がしい女子の相手をして疲れるよりも、一人で好きなことをしている方が楽しいと思うの
だが。
 女子はうるさいし、手間がかかる。
 というのが、寿の認識だ。意味のないメールは多いし、返さなかったら怒るし、そもそもプリ
クラをやたら撮りたがるのは何でだ。それも、何枚も何枚も。同じ金額を出すくらいなら、文庫
本一冊買うほうがよほど有益ではないだろうか。寿が思うに、女子というものは自分たち男子に
色々と求めすぎている。同じように、男子が女子に求めるものもあるのだと理解して、譲歩して
ほしいものだ。
 以上の理由から、寿は川野が誘う『遊び』をことごとく断ってきた。初めは残念そうにしてい
た川野は、寿が懇切丁寧に説明してやると誘うことはやめたのだが、そのとき非常に気の毒そう
に同情された。何故だ。
「……で、楽しい合コンに早く行かねぇの?」
 川野はきっちりと気合を入れて整えてきた眉を下げて、窺うような笑みを浮かべた。
「それがさぁ〜」
「断る」
「…………」
 言い切る前に、寿はすっぱりと断言した。
「……オレ、まだ何も言ってないけど」
 寿は溜め息をついて、帰り支度にとりかかった。机の中の教科書を全部は持って帰らない。置
き勉は禁止されているが、教師がわざわざ机のなかを見回るわけでなし、必要なものだけを鞄に
入れる。
「言わなくても分かる。どうせメンバーが一人足りないとかだろうが。ぜったい、行かないかん
な」
 席を立ったところで、 がっしと腕を掴まれる。
「頼むよ、日ノ輪!」
「いやだ」
「自己紹介のときとか、からかわれてもフォローするからっ」
 寿は掴まれている腕をぶんと振った。
「やかましい! おれはこの名前気に入ってんだ!」
 日ノ輪寿。なかなかに縁起の良さそうな名前をフルネームで名乗ると、みんなそれぞれに微妙
なリアクションをとってくれるが、ほっとけと寿は思う。確かにこの名前でからかわれたことは
ある。しかし、めでたい名前で結構じゃないか。
 手を振り払われた川野が、慌てて叫んだ。
「なんでも奢るからさあ!」
 寿は帰りかけていた足を、ぴたりと止める。
「……なんでも?」
「え、」
「本当に奢る?」
「う、うん」
 若干後悔し始めているような川野に、寿はにやりと笑った。それなら、話は別だ。たかだか二、
三時間我慢して笑っていれば、予算不足で涙を飲んだあれやこれやが手に入る。
「それなら行ってやってもいいぞ」
「ほ、ホントか!?」
 ぱぁ、と顔を明るくした友人に、寿もにっこりと笑い返した。
「とりあえず、おれの分の合コン費用はお前持ちな」
 もちろん、見返りとはまた別だ。
 がっくりと肩を落とした川野の背を叩き、教室を出る。高い物は駄目だぞ、と喚く川野に適当
な相槌をうちながら、寿はふと立ち止まった。
 階段の最上段、真正面には大きな窓から青い空が見えている。
(――いい天気だな)
 開いた窓から絶え間なく蝉の鳴き声が風とともに入ってくる。汗ばんだ肌を撫で、制服の半袖
を揺らす。
 空はどこまでも青く、つきぬけるようだった。遠くに積乱雲がうかんでいるから、夕方は雨が
振るかもしれない。
 夏だ。
 なにひとつ特別なものなどない、けれどうつくしい夏の景色だった。
「――おーい、ひのわー?」
「……いま行くー!」
 しばし、ぼうと見惚れていた寿は先を行く川野に階下に呼ばれて、止めていた足を踏み出した。
 ――けれど、
(う、わ……!?)
 ぐらり、と体勢が崩れる。
「えっ……!?」
 がくんっと踵が階段を踏み外し、
「――――――ッ!!」
 寿は、真っ逆さまに落ちていった。

最後に見たのは、夏の空。
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