「……つぅ……っ」
 寿は頭痛で目を覚ました。咄嗟に頭に手をやって確かめるが、途端に走った痛みに呻いて、体
の力を抜いた。
(おれは……)
 そうだ、階段から落ちたのだった。手足や胴体のあちこちが痛む。きっと打身ができているに
違いない。頭の方は、触った手に血はついてこなかったので心配するほどではないだろう。
 とはいえ、
「いたい……」
 傷を負った瞬間の声なく叫ぶような衝撃は幸いに感じなくてすんだが、それでもずくずくと長
く響く鈍痛はいかんともしがたい。しかし、このまま寝転がっているわけにもいかないだろう。
(あ、そうだ)
 寿は閉じたままの瞼に力を入れた。そういえば、友人はどうしたのだろう。寿が転げ落ちた音
を聞いて駆けつけてきてくれても良さそうなものなのに、もしや合コン行きたさに捨て置かれた
のだろうか。
「……だったら許さん」
 呻くように言って、とにもかくにも起き上がろうと寿は手の平をついて、力を込めた。
 ざりり。
(……え?)
 一瞬、思考が止まる。
 手の平に感じた感触は、ざらついた――まるで、砂地や砂利の地面のような。
(…………?)
 おかしい。
 だってここは、校舎内のはずだ。夏季休暇中とはいえ、掃除がないだけでこんなに汚れるもの
なのだろうか。
「ぅ……」
 寿は痛みをおして、起き上がった。手のやわい皮膚に砂利がくいこむ。頭を押さえ、瞼を擦っ
て目を開け――――また閉じた。
「……え、」
 しきりに瞬きを繰り返す。
(え、え、ここ……?)
 目に映ったのは、一面の荒野。
 いつだったかテレビか写真で見たような、赤っぽい砂や土の地面が四方の遥か遠くまで広がっ
ている。ところどころに大きめの岩はあるが、それ以外は草木ひとつない。
「……うそだろ」
 寿は絶句した。
 ――待て待て待て。自分は確かに、階段から落ちたはずだ。学校の、校舎の、階段から。
 こんな荒野とは一切無縁の場所で。
(……というかそもそも、日本にこういう場所はあるのか?)
 思い描くのは、アフリカ大陸とか、そこらへんだ。或いは、アメリカのグランドキャニオンと
か。
「地平線が見える……」
 それだけで、日本ではまずありえない光景の気がする。いや、北海道なら……しかし、赤土の
荒野など北海道にあるだろうか。
「いやいや、まず学校の階段から落ちたおれが地面にいるところからおかしい」
 北海道とかの問題じゃない。
 ――もしかしたら、頭が変になってしまったんだろうか。
 ぞわり、と寿の背を怖気が走った。
「……っ携帯!」
 寿は慌てて周囲を見回した。一刻も早く、現実が欲しい。
 持っていたはずの鞄はなくなっていた。なんともいえない恐怖がこみ上げるなか、尻ポケット
を探ってみる。
「あった……!」
 歓喜にも近い声をあげ、寿は興奮でままならぬ指でようやく携帯電話の画面を開いた。
「……っ!?」
 ひゅう、と喉が鳴る。
 日付も、時間も、待ち受け画像も何一つ落ちる前から変わりがなかった。ただひとつ、『圏外』
という表示を除いては。
「――っ」
 寿は、震える指で短縮ボタンを押す。家の電話の番号だ。
 耳にあてるが、しばらく経っても呼び出し音すら聞こえてこない。
「まじ、で……?」
 なんともいえない恐怖が、寿を襲った。ざっと全身に鳥肌がたち、臓腑が冷えて苦しくなる。
 それから、すべての番号にかけてみてもメールを送ってみても、携帯電話は静かに動かないま
ま。寿が茫然と見つめるなか、無音でデジタル時計の分表示がひとつ数字を増やす。機械自体は
正常に動いているし時間は進んでいるのに、誰にも繋がらない。誰とも。
「うそだろ……!」
 寿は叫んで、蹲るように丸くなった。
 ――なんだここ……なんだここ!
 ありえない、こんなことはありえない。
「…………夢」
 虚ろな瞳を、けれど寿はぎゅうと瞑って頭を振った。
(な、わけない)
 こんなにリアルなのだ。自分が感じる何もかもが、こんなに現実味を帯びて迫ってきているの
に、夢なわけが、頭の中だけの出来事のわけがなかった。目は、これ以上なくはっきりと、覚め
ている。
 ――では、これは何だ。
 この状況は一体、どういうことだ。なにがどうして、こうなった。
 はふはふと苦しい呼気が漏れた。唇が乾いている。
「――、」
 寿はここでようやく、太陽が強く照り付けていることに気がついた。
 顔をあげると黄色に輝く光に目を焼かれそうになる。眩しい。寿の知る太陽は、ここまで大き
くも、ぎらぎらと強くもなかったはずだ。
「あつ……」
 寿は額に手を翳して太陽を遮った。改めて目を開ければ、赤い荒野が熱気で蜃気楼に揺らめい
ているのが分かる。じりじりと肌が焼け焦げるような感覚までして、寿は剥き出しの手足を守る
ように丸まって影をつくった。
 暑い。
 それも、日本のような――それも充分だったが――暑さとは、またまったく別物の暑さだ。日
焼けどころでは済まない、鉄板の上で焼かれるような暑さに、寿は危機感を感じた。気付けば制
服も汗でぐっしょり濡れている。このままではすぐに脱水症状に陥ってしまうだろう。
 そこまで考えて、寿はほっと吐息をついた。
(だいじょうぶだ……)
 おれは、冷静だ。
 ショックからはどうしても抜け出せないが、それでも思考は回っている。
 これがどういうことかは、わからない。なぜ、こうなったかも知らない。ここがどういう場所
なのか、これからどうすればいいのか、自分がどうなるのかも、いまはまだ寿には分かっていな
かったし、考えることはできていない。
 言ってみれば何一つ解決に近づけてはいないのだが、自分の身を守るために導きだした答えに
縋るように、寿は微笑んだ。安心したかった。
「……とりあえず、あの岩の影にいこう」
 携帯電話を持つ手に力を入れて立ち上がる。どこもここも痛かったが、骨は折れていないらし
い。よたよたとではあるが歩けたことに、またひとつ寿は安心する。
 ようやく思いで岩の影に入り込み、寿は溜め息をついた。暑いことは暑いが、さっきよりはマ
シだ。
 けれど、落ち着いたことで、今度は余計に不安が募りだす。
「……ここ、どこだろう」
 ぼう、と視線を地平線へ向けたとき、ふと何か動くものがあることに気付いた。黒い点だ。そ
れは、どんどんこちらに近づいてくる。
「あっ、馬……!」
 いや違う、その後ろに大きな箱がくっついている。馬車だ。
「馬車……?」
 寿はふと呟いた。
 馬車が、こんな荒野を走っているものだろうか?
(普通、こんなところって車とかで……)
 テレビなどではジープのような大型の四駆で移動していたように思うのだけれど。
(あ、でも……)
 馬車が走っているということは、人がいるということだ。寿は顔をぱぁと明るくした。馬車は
もうそこまで来ている。
「待って!!」
 寿は岩影から走り出た。
おれをたすけて!
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