四日目の朝、目覚めると雨が降っていた。
 細い糸のような雨が、しとしとと野ざらしの寝床に降り注ぐ。いつから降っていたのか、それ
ほど前ではないだろう。前髪の表面だけがしっとりと濡れていた。
 瞬きで睫にたまった滴を弾いて、寿は傍らで身を起こしたサーシャに笑いかけた。
「おはよ、サーシャ」
「おはよう、コトブキ」
 眠たそうに目を擦る子供っぽい仕草に、心が和む。
 ――寿はここに来て、朝が嫌いになった。
 だから、サーシャの他愛のない愛嬌にずいぶんと助けられる心地だった。
(……今日は少し、寒いな)
 ふる、と身を震わせる。四日の間に泥と垢で汚れた肌は、鳥肌がたっていた。
 寿は憂鬱になる。
 きっと、こんな日は昨日よりもアレの数が多く出るんじゃないだろうか。
「コトブキ?」
「……うん、いまいく」
 早いところ起き出さなければ、男たちの鞭で打たれてしまうかもしれない。寿は気鬱さを抑え
て立ち上がった。そうすれば否応なしに、景色が目に入る。
(――やっぱり)
 何かの残骸のように、藁でつくられた寝床が何百と散らばっている。雨で水溜りができ、泥で
汚らしくなったその上に、無造作に転がった奴隷が幾人かいた。深く寝入っているようにも見え
る。
 彼らは、もう二度と目覚めない。
 ここの暮らしは、寿の思った以上に厳しいのだ。
 毎朝こうして、死体が出る。死人が増える。
 そしてそれを片付ける仕事も、どうやら奴隷らしかった。
(あの仕事だけはしたくないな……)
 実際にしている奴隷たちには、申し訳なく思う。わけもない罪悪感もあった。けれど、それが
寿の卑小な本心だ。
 寿はあの死体たちを見るたびに怖くなる。
 ――いつ、自分もああなるだろうか。
 死んでたまるかという決意と、あんなふうに死にたくないという怯懦とで、死にそうな気分に
なった。

 人が死ぬのを見たのは、初めてだった。

 驚愕した。疑った。やがて恐怖し、片隅で新鮮なほど驚いた。
 人間は、あんなに簡単に死ぬのか。
 あんなに簡単に、死なせてしまって――いいのか?
(なんで……)
 どうして、あの人たちはあんなふうに死ななければいけなかったのだろう。なんで、自分はあ
んなふうに死ぬかもしれないところにいなければならないんだろう。
 寿のいた日本は、平和だった。もちろん、理不尽な死だってあった。殺人事件だって、思えば
頻繁に報道されていたかもしれない。それだけじゃなく、ホームレスの人だって家も食べるもの
もなく死んでいくという話も聞いた。
 ――けれど、こんなふうに、ここみたいに、無理やり辛くて危険な労働を課せられて、こきつ
かわれたあげく死ぬようなことは、なかった。
 人が、そんなふうにして殺されていい場所では、なかったのに。
(……そうだ)
 寿は知らず、拳を握る。
(あの人たちは、殺された)
 不当に。
 理不尽に。
 不条理な。
 ――これは、暴力だ。
 苦しくて、胸が詰まって、何かが喉からせりあがってくる。叫びだしてしまいたい。
(ここは、おかしい……っ)
 後から思えば、このとき寿は怒っていたのかもしれない。悔しかったのかもしれない。ただ、
冷静ではなかった。


「――いやぁっ!!」
 悲鳴が、寿の鼓膜をきんと突き刺した。
「え、なに……」
「コトブキっ」
 小さく鋭い声音で、サーシャが寿の注意をひく。指差した先を目にして、寿は目を瞠った。
『女の人……』
 やせ細った、けれどはっきりと体のおうとつが分かる女性が、青いターバンを巻いた男の足に
取り縋っていた。
 まず、その図に寿はぎょっとした。
 が、ついで寿の死角で、男が何かを握っていることに気付く。長い髪だ。
『なっ…にして……!』
 寿は息を呑んだ。
 男は、華奢な少女の髪を掴みあげていた。
 まだ少女と呼ぶのも憚るような年齢に見えた。まるきり子供だ。寿の身長の、半分あるかどう
かの小さな体。その子供を、男が髪だけを持ち上げて引きずろうとしていた。
「やだっ、やだぁあ!!」
 折れそうな手足が暴れる。
 ぎゅ、とサーシャが寿の腰にしがみついた。
「離せ!」
 男が怒鳴った。その足で、女性を踏みつける。
「お願いでございますっ」
 悲鳴をあげそうになったのは、寿のほうだった。女性は咳き込みながら、それでも男の足元に
ひれ伏した。
 必死の形相で、地に額をつける。
「その子はまだ十にもなってないんです……っ」
「騒ぐな! 鬱陶しい!」
「お願いします……!」
 懇願だった。
 寿は茫然とする。頭が麻痺しているみたいだ。
(なんのことだ……?)
 何を揉めているのかは分からない。
 けれど、女の甲高い悲鳴と、男の怒声がわんわんと響く。――それなのに、奴隷たちは大して
動揺していないようだった。そのことにも寿は驚く。おどろいて、腹のあたりが段々と熱くなる
ような気がした。
 彼らを遠巻きに、奴隷たちの表情は虚ろだ。澱んだ目に浮かぶのは、
(……同情?)
 憐憫。
 そして、諦観。

 ――――何故。

 ひときわ大きく、少女の細い泣き声が響いた。
 それが契機。
 いい加減、寿は限界だったのだ。
『……っやめろ!!』
 駆け出していた。
 それがどういうことか、どうなるのか、思いつきすらしないで。
 渾身の力で男に体当たりして、少女を奪い取る。男の無骨な指に薄茶の細い髪の毛が絡みつい
ているのを目にして、かっと頭に血がのぼった。
「何をする……!!」
 かろうじて転ぶのを堪えたらしい男から、寿は少女を遠ざけた。自分の背に隠して、男を睨む。
『お前こそ、なにやってんだよ!』
 言われている意味は分かっても、自分の言葉をこちらのものへ変換する余裕なんてなかった。
通じないことはわかっているが、寿は叫ばずにいられなかった。
『こんな女の子に、なにやってんだよお前!!』
 地面に膝をつけたままの女性にも目を移す。唖然と、痩せすぎの顔が寿を見上げていた。
 ――こんな細い女の人に、何をやらせているんだ。
『謝れよ……』
 自分より遥かに大人な男が憤怒の表情を浮かべるのも、気にならなかった。
 喉が震える。
 体の中いっぱいに膨れ上がった何かが爆発しそうで、頭ががんがんと痛んだ。
『謝れ!!』
 血走る瞳で叫んだときだった。
 ――悲鳴があがった。
 サーシャの悲鳴だ。やけに遠くで聞こえた。
「……っあ?」
 頬が冷たい……いや、熱い?
 口のなかに液体が入ってきて、寿は咽た。
(な、んだ……?)
 泥水だ。
 反射で体を丸めてから、寿はようやく自分が地面に倒れ伏していることに気付いた。
(え、なんで……)
 横臥した体の右側が冷たい。雨でぬかるんだ泥を吸い込んで服がじわじわと重く濡れている。
 ――痛みは、半瞬遅れて追いついてきた。
「っあ、ぐ…ッ」
 寿は泥で汚れた手の平を左頬にあてた。痛い。信じられないくらい、痛かった。焼け腫れたよ
うな感覚がする。
(……なぐられ、た……?)
 驚きの方が先に立った。
 子供のころにケンカをしたことはあったけれど、ショックは大きかった。殴られたこと自体が、
衝撃だった。
「コトブキ!!」
 また、サーシャの声。
 それから、男の怒号と一緒に激痛が降ってきた。
「あぁ、あ……っ!!」
 今度は頭を庇った、左腕。
 ばちぃ、と恐ろしいほど間近で弾ける音がする。
 わけが分からないまま上げた叫びに混じって、女性と少女の悲鳴も響いたが、いまの寿には知
覚できない。肩越しに男が鞭を振り下ろしてくるのだけが、寿の思考を支配した。
(むち……?)
 しなる木の枝を削ったような、粗末な鞭だった。
 それでいま、寿はぶたれている。
(……うそだろ)
 切れ切れに苦鳴を迸らせながら、寿は恐怖と困惑で混乱したぐちゃぐちゃな頭の隅で呟く。
 信じられない。
 ――精神的な打撃は大きかったが、けれど今はすぐに肉体の苦痛に追いやられた。
「ぅあ、あ、ああぁ……っ」
 ようやく耳に入る喚きが自分のものだと気付いたとき、寿は激痛に霞む目を見開いた。最初の
一発を入れられてから、何分、何秒たったのか。相変わらず男が何か怒鳴っているが、なんと言
っているのか分からない。
 それより、そんなことより――泣きながらこちらに走り出そうとする、小さな体。
「くるな、サーシャ!!」
 来させてはいけない、それだけ分かった。
 なのに、サーシャはぼさぼさの髪からかろうじて覗く顔をくしゃくしゃにして走ってくる。
(ダメだ……!)
 もう一度、叫ぼうとした。
「っぐ……!」
 けれど殴られる。
 ――誰か、サーシャを止めて。
 思うのと同時に、寿は四肢に力を込めていた。意識した行動ではなかったが、起き上がろうと
した。そして――――、


「そこらへんにしとけよ」
「っぎゃ!」
 無遠慮に割り入った艶のある声をそれと認識する前に、突然背中に降ってきた重みに耐えかね
て、寿は雨と泥水のなかに沈んだ。


え、え、え?
next