◇ ◇ ◇ ファビオはなかば呆れつつ、小さな体を腕に抱きこんだ。 「はなせっ、コトブキ!」 「あー、はいはい。ウチの頭が助けてるからな」 言いつつも、子供が暴れるのをやめないのも無理はないなと溜め息を吐きたくなる。ファビオ は生ぬるい表情で、その頭へ視線を移した。 無謀にも役人に楯突いた少年に呆れはしたが――、 (おいおい、アッシュよ) 助けろと言っておいて、それはないんじゃないか。 小麦色の肌に輝く金髪、野生の獣を思わせる琥珀色の瞳をした青年はいま、自らが助命を命じ た少年の背中を堂々と踏みつけていた。 自信に満ち溢れた表情は非常に魅力的で頼もしくはあるが、やはり少々人間性を疑われてもし かたないだろうなとファビオは思う。 (あとでセサルが怒るぜ、これは……) 笑顔で毒を吐く――それも、アッシュにではなくファビオに叱責を向ける同い年の男を思い浮 かべて、苦笑が洩れる。 (まったく……しょうがねぇ奴だな) けれど、破天荒な性格も言動も、ファビオが認めたカリスマであるので。 「……おい坊主、安心しろよ」 ファビオは腕のなかの子供に笑いかけた。泣き顔が見上げてくるのに、言ってやる。 「あいつが、あのガキを助けてくれるぜ」 口にした矢先、役人の男が怒りも露わに鞭を空で振り回した。 「貴様、俺に逆らう気か!」 庇いだてするならそのガキと同じようにしてやる、と息巻くのに、アッシュは唇の片端だけを 吊り上げた。 「庇うってんなら、アンタのほうさ」 「……何を言っている?」 眉をひそめる役人に、アッシュは遠くを顎で示してみせた。ちらりと男が振り返る。その方向 は、奴隷を監視するために役人が昼夜詰めている官舎があった。役人たちはそこで生活と仕事を 一挙に行っている。 アッシュは嗤った。 「知らねぇの、アンタ?」 「……何が」 「アンタらの上司殿、昨日の深夜にお帰りになってんぜ」 男は狼狽して目を剥いた。 「う、嘘を言うな……!」 「本当だって。アンタ夜番だったから知らなかったんだろ」 そうして、傍目にも不穏な嘲笑を唇に刻んだアッシュは、しなやかな獣のような足取りで、ゆ っくりと男に近寄っていく。 ――まったく、本当にしょうがない奴だな。 ファビオが失笑するほど、アッシュの覇気は男を怯ませた。 あからさまに震えた男の耳に、アッシュはむしろ悠然と静かな仕草で唇を寄せた。 「どうせ、夜番明けにそのまま女抱いて寝るつもりだったんだろ……? 残念だろうが、やめて おけよ。いくらなんでも、連れ込めばベニートの野郎にバレるぜ」 「ひ……っ」 男がおびえるのも、無理はないかもしれない。 ファビオは、腕のなかで震えた子供の頭を撫でて宥めてやる。 ――アッシュの声音は、殺気じみていた。 「つーわけで」 ぱ、とアッシュは信じられないくらいあっさりと男から身を離すと、飄々とした笑みを浮かべ た。 「もう戻ったほうがいいんじゃねぇの?」 随分、人目も集めてるみてぇだし、と付け加えたアッシュに、男は慌てて周囲を見回した。奴 隷たちはさっと顔を逸らしたが、注目されていたのはそれだけで充分に分かる。遠方からは同じ 色のターバンを巻いた同僚がこちらを見て首を傾げているのまで知って、男はかっと顔を赤くし た。 「な?」 「――っ、散れ!」 男はぶんと鞭を振るった。 「さっさと持ち場に行かんか、汚らしい奴隷どもめ!!」 そうして足取りも荒く、逃げるように去っていく。 (……腐った野郎だな) 感慨なく心中で吐き捨てて、ファビオは男が完全に遠のいたのを確かめてから腕の力をゆるめ た。 「コトブキ!」 解放された子供が駆けてゆく。 地面にぐったりと横たわった少年は、どうやら気を失っているらしい。もしかしなくとも、ア ッシュのアレがとどめだったんじゃなかろうか。不憫な少年だ。 「ファビオ」 コトブキという少年に泣きながら縋る子供を面白そうに見下ろしていたアッシュが、顔をあげ てにやりと笑った。性悪そうな笑顔に苦笑してしまう。 「お疲れ、アッシュ」 「おう。お前はもうひと働きしろよ」 「分かってるって。……連れてきゃいいんだな?」 「ああ」 迷いのない断言に、ファビオは溜め息を吐くほかない。 「またセサルが怒るぞ」 「お前が怒られとけよ」 勝手な言い分に、もはや腹も立たない。アッシュの、年齢相応に鋭いつくりの顔が、ふいに悪 戯好きな子供のように幼く崩れた。 「それに、あいつは口でどう言おうと、こういう奴のことが好きだからな」 「まぁな」 ファビオは同意するしかない。 ――が、けれど、とも思う。 理想は、理想という美しいそれだけで成就するものではない。それは自分も、潔癖なセサルも 理解していた。目的のために自分たちは、何かを切り捨て、何かを踏み台にし、そして誰かを殺 すだろう。承知のうえだった。 (お前もそうだろうが、アッシュ) この時期になぜ、わざわざ役にも立たない非力そうな子供を庇い立てなどするのか。きっと目 をつけられた。挙句、懐に入れようという。 解せなかった。 「――ファビオ」 指示されるままに気絶した少年を抱き上げたファビオを、ふと金と見紛う琥珀色の双眼が振り 返った。 鋭利な眼差しは、ファビオを見透かすようだ。 「アッシュ――」 思わず零れ出た声は、威圧に押し負けたせいだった。 に、とアッシュの形のいい唇が笑みを刻む。心底楽しげに、目でファビオの肩に担ぎあげられ た少年を指して。 「――そいつ、立って倒そうとしたんだよ」 ファビオは眉をひそめる。 「倒す……?」 役人の男をか。 「そのガキが飛び込んでこようとしたときな。確かに立とうとしてたぜ」 「……」 ファビオは、少年を担ぐ自分にぴったりとくっついた子供を見下ろしてから、アッシュに目を 戻した。 「殺すつもりだったのか、ただ殴るつもりだったのか……どっちにしろ戦うために立とうとした。 理由なら、それで充分だろ。――面白いと思わねぇか?」 くつくつと喉で笑ったアッシュは、ファビオの答えを待たずに踵を返した。どこへ行くのか訊 くまでもない。奴隷は働くために生かされている。 振り返りもせずにひらりとアッシュは手を振った。 「面倒みてやれよ」 「――――……」 ファビオは、無言で背中を見送ったあと、こちらを真剣な表情で見上げてくる子供にちらりと 目を落としてから、盛大な吐息をはきだした。 ◇ ◇ ◇ |