いつだったか、もう覚えていない。
 夏だったのか冬だったのか。何歳のときだったのか――ただ、小学生だったのは確かだ。

 学校だった。
 廊下の端で、教師と生徒が向かい合っている。
 窓硝子から指し込む陽光が、奇妙な影を二人に投げかけていた。

(……あぁ、覚えてる)

 教師は中年の男だった。最高学年のクラス担任を任されるような教師で、寿は彼がなんとなし
苦手だった。例えば、すれ違う間際に目が合うのを避けようとしてしまうような。不安とぐずぐ
ずした反発心を、澱みのように子供の胸に溜める男だった。
 生徒のほうは、寿と同い年の少年。
 寿の、彼への印象は強い。

(いつも怒られてた……)

 落ち着きがない。話を聞かない。座っていられない。私語が多い。宿題をしてこない。勉強が
できない。漢字が読めない。計算が遅い。協調性がない。
 教師たちが彼を責めるのは、言ってしまえば常時のことだったが、特にいま相対している男は
酷かった。
 微に入り細を穿ち、粘着質にあげつらう内容は、果ては給食費の滞納にまで及んだ。
 
 彼は、じっと俯いたまま、耐えている。

 それを見てまた、教師は口汚く罵った。
 生意気だと。
 反抗的だと。
 口もきけないのか、と賢しらに。
 子供ながらに――子供の寿でさえ、声音に滲んだ優越に気付いた。

 醜い、と。
 思えば、寿が人生で初めて何かに対してそう思ったのがこのときだった。
 意識せずとも、強烈な嫌悪感が寿の幼く小さな胸の裡を侵食していく。

 そして、教師は言ったのだ。

『これだから、片親の子供は』

 嘲弄だった。
 ――彼は、次の日から学校に来なくなった。

(……いやだ)

 寿は、特別彼と親しいわけではなかった。何回か、大人数にまじってサッカーやドッジボール
をしたことがあるだけ。
 けれど、あのとき寿は、彼といっしょに傷つけられたような気がした。
 なにかとんでもないものを、めちゃくちゃに汚くされたような気がしたのだ――…。





 あちこちが痛くて、目が覚めた。
(……なんか、最近こんなんばっか)
 いっそ泣きたい。というか、既に泣いていたようだが。
「うぅ……」
 寿は小さく唸って、ぐし、と涙ではりついた瞼と汚れた頬を拭った。
 ここずっと、体のいたるところが痛い。まずこの世界に来たときに頭を打ったし、奴隷商人ら
しき男に捕まえられたときも縛られて痛かったし、慣れない重い肉体労働のせいで常に筋肉痛だ
し、固い地面のうえで寝るから背筋も節々も軋むというのに。
 このうえ、鞭で打たれようとは。
 記憶も思考もはっきりしていた。
(サーシャ……あの子たち、どうなったんだろ)
 頬が熱かった。腕と肩も、少し動かすだけで鋭い痛みが走る。
『いた……』
 きっと、青紫に痕ができているだろう。この様子だと、熱がでているかもしれない。
 ――じわ、と目頭があつくなった。
 体を丸めて、ぎゅっと小さくなる。
「く……っ」
 嗚咽がもれそうになって、とっさに歯を食いしばる。これ以上無様になりたくなかった。
 ――無様。
 そう、これは屈辱だ。
 罵られ、地面に這いつくばって鞭でうたれた。
 屈辱だった。
「ぅ、く」
 寿は必死で目を瞑り、息を止める。
 ――理不尽な暴力に屈した。この、自分が。
 たいしてプライドが高いほうでもないと思っていたけれど、自分に鞭で打たれるような所以な
んてなかった。
 そしてその辱めに、寿は抵抗できなかった。
 負けたのだ。
 ――それはどんな言い訳を並べ立てても、寿には侮辱を受け入れたことと同等に思えた。
「……っは、」
 苦しい息を吸い込む。
 泣きたくない。
 これ以上自分を、惨めな人間にしたくなかった。許せなかった。認められない。
(……こんなのは)
 そうだ。
 ――認めない。
 寿は唇に歯を立てた。ぶつ、と皮が破れる。
 こんな暴力は、屈辱は、理不尽と非道は認めない。
「……っ!」
 胸の奥底から喉までを圧迫してせりあがってくるものを堪えるために、寿は握った拳を高く振
りあげて顔の横に叩きつけた。
「――あ、おい!」
 慌てたような、男の低い声。
「……え?」
 寿は驚いて顔をあげた。
「お前あちこちケガしてんだから、馬鹿な真似してんじゃねぇよ」
 大きい。
 それが、寿の男への印象だった。
 屈んでこちらを覗きこんでいるのに、ちっとも小さくなったかんじがしない。身長は絶対に二
メートルを越えているだろう。体のつくりも、その背の高さに見合ったがっしりとしたものだっ
た。すっかり元の色をなくして汚れた薄い布の服のうえから、隆々と盛り上がった筋肉がわかる。
首も太く、その上に乗った顔も彫りが深く男らしい面立ちだった。
(……すご)
 某ロボット役を演じたハリウッドのアクション俳優の、ワイルド版みたいな男、というのが、
寿の総合的な感想だ。
「おい、平気……じゃねぇよな。体の具合はどうだ?」
 寿ははっと我にかえった。色々なショックのせいか、言いたいことをこちらの言葉に変換する
のに少しだけ時間がかかった。
「……だ、いじょぶ。いたい、けど」
 実を言うと耐えられないと喚きたいほど痛いが、ここでそれを口にしてもどうしようもないだ
ろう。
「……おれ?」
 ぼんやりした様子の寿に、男が苦笑した。
「丸一日寝てたんだぞ、お前」
「……えっと、」
 寝ていた、は分かる。「まるいちにち……」と復唱しながら少し考えてから、寿は目を瞬いた。
『一日?』
 そんなに寝ていたのか。
 ここ数日でくせになった習慣で、寿は空を見て時間を知ろうとした。
「……?」
 けれど、驚くことに、天井がある。
 寿は寝転んだまま周囲を見回した。
(小屋だ……)
 それも、頑丈そうなつくりの、ちゃんとした。壁は土か砂かわからないが、しっかし均してあ
るし、天井に穴があいている様子もない。寿が横になっている床も、地面そのままではなく木材
が敷いてあった。
 ただ、いたるところに大きな木箱が積みあがっているので、人が入れるスペースはそう広くな
さそうだったが。
『ここ……』
 資材置き場かなにかなのだろうと、寿は適当に検討をつけた。
 結局何時かわからず再び男を仰ぐと、彼はにっこり笑った。
「まぁ、若いからあんだけ打たれても平気だろうよ」
「う……ん?」
 言われていることがよく分からず、寿は曖昧に首を傾げる。男はそんな寿に構わず、朗らかな
笑みを浮かべたまま、手を差し延べてきた。
「お前、コトブキでいいのか?」
「……うん」
 これは分かった。微妙に発音が違うが、そこはもうどうしようもないだろう。
「変わった名前だな。オレはファビオだ」
「……えっと、ふぁ、」
「ファビオ」
「ふぁびお」
 ファビオと名乗った男は、くすりと微笑ましそうに唇をゆるめた。
「ま、ちっと違うけどそんなもんかね」
 躊躇いがちに乗せたファビオの手の平は、大きくごつごつとしていた。寿の知る男の誰のもの
より、立派だ。その手で、固く寿の弱い掌を握られた。
「さあ、手当てすっから服脱げ。起きられるか?」
 部分部分を聞き取って、寿は理解できるところだけに答える。
「おきれる」
 ファビオに支えられながら、寿はよたよたと上半身を起こした。途端に激痛が走って声をあげ
そうになるが、そこはファビオの前なので、意地でも最小のものにとどめる。
 起き上がったときには、息切れをしていた。
「……服?」
 些かぐったりしながら首を傾げた寿に、ファビオは頷く。
「脱がせるぞ」
「わ……!?」
 前置きはされたが、いきなりべろんと服を捲くられて、寿は驚いた。肌寒さに身を震わせる。
「あーあ、腫れちまってまぁ……」
 ファビオが呆れた声をあげて、小さな壜を取り出した。あまり上等な品でないのか、白く濁っ
た硝子壜だ。蓋を開けると、すっと清涼感のある匂いが広がった。
「なに?」
 薄荷のような匂いに、頭がすっきりする。かすかにしていた胸焼けも楽になりそうな気がした。
「薬だ」
「くすり……」
「そう。塗るぞ」
 稚い子供のように口真似をする寿に笑みを零してから、ファビオは薄青色のクリーム状のもの
を指で掬い、痛々しく変色した打撲痕にそっと擦り付けた。
「……っ!」
 とっさに悲鳴を飲み込んだ寿は、息を止めたまま奥歯を噛んだ。
「悪ぃな、我慢しろ」
 苦痛に呻きながら、寿は理解した。これは湿布のような効果のある軟膏なのだろう。おそらく、
寿が意識を失っていた間も塗ってくれていたに違いない。
 手当てを終えてぐったりと沈んだ寿の頭を、ファビオは子供にするように撫でた。
「感謝しろよ。これ、サーシャがくすねてきたんだぞ」
 はた、と寿は目を瞬いてファビオを見上げた。
「……サーシャ?」
「ああ」
 寿はまた起き上がろうとした。
(そうだ、サーシャ……!)
 丸一日経っているという。いま何時か分からないが、ファビオがいる限り労働時間ではないの
だろう。だとしたら、どうしてサーシャが傍にいないのか。
 顔色を変えた寿の無事なほうの肩を、ファビオがそっと押す。
「無理すんな、寝てろ」
「サーシャ!」
 名前を繰り返す寿に、ファビオは宥めるように頷いてみせる。
「平気だ。分かるか? サーシャは無事だ。何もされてないし、あの嬢ちゃんたちも大丈夫だ」
 寿はもがくのをやめた。
「……だいじょうぶ?」
「ああ」
 力強い首肯に、寿はほっと力を抜いた。
(よかった……)
 脱力した目元に、温かな掌が添えられた。慰めるような労わりに、寿はふいに涙ぐみたくなる。
「ファビオ……?」
「いまは休め。アッシュが決めた……お前はもう、オレたちの仲間だ。ケガが癒えるまでは、ゆ
っくりさせてやれる」
 なんと言われているかは、相変わらずさっぱり分からなかったけれど。もう心配することはな
いのだと、不安に思うことなどないのだと、そういう空気があった。
 鈍痛とともに眠りに沈む意識に抗えない。まだ聞きたいことはたくさんあるのに。

 寿はこの世界にきてはじめて、安らかな眠りに身をゆだねた。
 ――いまだ、胸の奥底で熾火のように燻る熱はあっても。



おれは忘れない。
next