セサルです、とその男は名乗った。 「――今日はこのへんにしておきましょうか」 「はい」 あれから三日、寿は変わらず小屋で体を休める日々が続いている。一度目覚めたものの、ファ ビオと会話してからまた一日を熱に魘されることとなり、そしていまだ元のように体を動かせる ほどの回復にいたっていない。 けれど、ただ動けないだけであるので、退屈は退屈だ。痛みを我慢するよりは寝てしまった方 が楽なのだろうけれど、それもはじめの三日を寝てすごしたために、簡単には眠気がきてはくれ なくなった。サーシャがときおり訪ねてきてくれるが、長い間いっしょにいてくれるわけではな い。 暇を持て余した寿にファビオが紹介したのが、セサルだ。 セサルも奴隷なのだというのは、身なりから分かった。けれど、彼は三日の間をほとんど寿と すごすことに費やした。 作業に行かなくて大丈夫なのだろうかという寿の心配を余所に、セサルは寿が喋れないことを 知ると、どこからか彼は、砂でできたボードを持ち込んだ。木の枠でできたお盆のような浅い入 れ物に砂を敷き詰めてあるもので、寿は初めそれを何に使うのか分からなかったが、要は砂製の ホワイトボードだった。指や木の棒で砂に文字や絵を描き、手ではらえば簡単に消せてしまうの で、紙と鉛筆よりも便利で何度でも使える。ただ、当然だが書き留めておけないところが、やは り難点ではあったが。 三日間、寿はそうしてセサルから言葉を教わっていた。 (なるほどなぁ……) 習うより慣れろとはこのことか。 (……少し違う気もするけど) 文字は読めないが、三日間つきっきりで物の名前を教わったりして喋っていたため、不明瞭な ところも多いけれど、なんとか片言の会話からは脱することができるようになっていた。 ボードの砂を手遊びにいじりながら、寿は首を傾げた。 「セサルは、さぎょうに行かなくて大丈夫なのか?」 「ええ」 セサルは苦笑する。 そうすると、柔らかな茶色の髪の毛が同じ色の目元にやんわりと影をつくり、綺麗に整った顔 の印象をいくらか和らげるようだった。大人しい顔立ちだと思う。けれど、浮かべる理性的な表 情や清潔な雰囲気が、平凡なつくりの容貌に特別な印象を与えていた。 歳はファビオと同じ、二十四だという。 セサルもファビオも、容貌や肌の色などよりまず雰囲気が独特で、日本や寿の周りにはないよ うな人たちだった。 「私たち奴隷は何百人といますからね、一人二人抜け出しても平気ですよ。……愚かなことに役 人は奴隷の人数を把握すらできていなんです」 「……は、ぁく?」 「はあく、ですよ」 「はあく」 「そう。知る、分かる、理解するという意味ですね」 「おろか、は?」 「馬鹿ということになるでしょうか」 「バカ」 「本来の意味するところとは少し違ってくるんですが……コトブキは、あなたを鞭で打った男を 覚えていますよね。ああいう人間のことを言うんです」 分かりましたか、と問われるのに、寿はなんとか頷く。セサルの言い回しは難しいのに、彼は 全然手加減してくれない。それは親心みたいなものなのだろう。聞き終えたあとで質問すれば、 セサルは必ず答えてくれる。ボードに絵を描いたり、色々な言い回しで説明してくれて、時には 大げさなジェスチャーで実演まですることもあった。 セサルは頭が良くて、親切な人だった。 (……つまり、あの役人たちは、おれらがどれ位いるのか知らないってこと?) 寿は眉をひそめた。 (わりと杜撰っぽいな……) 呆れてしまう。 そもそも、セサルの話によると、この小屋のなかにある木箱や袋詰めにして積み上げてある資 材はすべて危険物らしい。火薬など濡らしてはいけないものなどを保管してあるというが、役人 たちは爆発物になど近寄りたくないらしく、その管理さえ奴隷に任せているのだとセサルは言っ た。 (……にしても) 寿はちらりとセサルを見る。 そろそろ、寿にも分かってきていた。 ――ファビオもセサルも、何かしようとしている。 役人に対する批判と敵愾。他の奴隷とは明らかに違う。考え方が、目に浮かぶ光が、その在り ようが。 一緒にいた、たった数日だけでもはっきりと分かる。 彼らは、違う。 (――頭が良すぎる) 予感は、そんな言葉で寿の心に浮かんだ。 「――どうぞ」 とんとん、と小さなノックがして、セサルが微笑して応えを返した。すぐにドアが開いて見慣 れた子供が飛び込んでくる。 「コトブキ!」 「サーシャ」 息をきらしたサーシャは、嬉しそうな顔で寿の横に座り込んだ。本当なら抱きつきたいのだと そわそわする動作がいっているが、生憎とまだスキンシップをとれるほど快復していない。代わ りに寿も笑顔を返して、サーシャの頭を撫でてやる。 「大丈夫か、ケガとかしてない?」 「へいき!」 にっこり笑うサーシャに安堵する。が、一方で申し訳なくも思うのだ。 微笑ましそうな表情を浮かべるセサルを、寿は上目遣いで見上げた。 「……あの、セサル。おれもさぎょう行く……」 「だめです」 きっぱりと笑顔で却下される。 「でも……」 サーシャみたいな小さい子供があんな危険でつらい労働をしているというのに、怪我とはいえ 風雨を防げる屋根の下でただ寝ているなんて、悪い気がしてしまう。 気落ちした寿に、セサルはしょうがないですねと呆れたように眉を下げた。 「コトブキはまだケガが治ってませんから、どうせ作業に参加しても大した役には立てませんよ」 というか、そもそも五体満足なときでさえサーシャより役立たずだったのだが。 「そのまえに、立って歩くこともできないのでは、行きようがないでしょう」 「うん……」 「だいじょうぶだよ、コトブキ」 俯いた寿を追うように、ごろんと寝転んだサーシャが下から覗きこんできた。痩せ細った手足 を子供らしく無邪気に投げ出して、笑う。 「オレは平気だ」 辛いことも苦しいことも、何もないよと。 「……うん」 こんな小さな子に気を遣わせてしまっている。 「……サーシャは強いな」 寿よりうんと小さな子供が、こんなにも強い。 「コトブキ?」 「うん……おれも平気だよ。大丈夫だ」 寿は頬を緩めた。 落ち込んでも、しかたがない。 寿にはいま、言葉を覚える以外できることが何もないのだ。 それは誰でもない自分の非力と無力のせいだった。寿はちゃんと分かっている。 ――落ち込んでも落ち込まなくても、できることがないのなら、せめて自分を慕ってくれる子 供を安心させるくらいはしたかった。 「サーシャ、今日はこっちに来てもよかったのか?」 「うん、ほんとはダメって言われたんだけど、アッシュって人がいいって」 「……あっしゅ?」 寿は首を傾げた。 それは人の名前だ。――それも、どこかで聞いた。誰が言っていただろう。 「セサル、」 それは誰だと尋ねようとした。 「……セサル?」 けれど、セサルが厳しい顔をしたから。一瞬だけだったが、明るい茶色の瞳が剣呑な形に細め られた。 不審げな顔をした寿に、セサルはすぐに柔和な笑みを浮かべると立ち上がった。 「……では、私は食事をとりに行ってきますから。サーシャ、コトブキを頼みましたよ」 「うん!」 「コトブキ、おとなしく待っていてくださいね」 「……はい」 セサルは言い置いて、小屋を出て行ってしまった。 (……聞いちゃいけないことだったのか?) それだけではない雰囲気があったと思うのは、寿が穿ちすぎなのだろうか。 ――何がある? しかし、思案に沈みかけた意識は袖をひっぱってくるサーシャに遮られた。 「コトブキ、あのね」 「なに?」 サーシャは寝転んだ体勢のまま、ぴたりと寿の腰にくっついた。二人分のぬくもりが、じんわ りと広がる。 もし弟がいたなら、こんなふうに甘えられたのかもしれない。そんなふうに想像するのはくす ぐったかった。 「この前、コトブキがたすけた子、おぼえてる?」 「このまえ……」 役人の男の暴挙から庇った少女だろうか。 「女の子? かみの長い……」 「そう、その子がね、コトブキにあいたいんだって」 「へぇ……元気そうだった?」 「うん、ちょっとだけしゃべった」 相槌を返しながら、寿は少しだけ逡巡した。会いたいというなら、寿としては構わないのだが。 「……セサルかファビオにきいて、会ってもいいって言われたら会わせてくれる?」 「うんっ」 寿は目元を和ませた。 ――なんにせよ、近いうちに寿のもつ色々な疑問に答えが出るはずだ。そして彼らの持つ疑念 にも、寿が答える日がくるだろう。 話せるようになってきたいま、寿は考える。 自分が違う世界――こことはまったく違う場所から来たのだと話していいのか、どうか。 馬鹿にされるだろうか。 信じてもらえないかもしれない。 頭がおかしい奴だと思われてもしかたないだろう。 (でも、) 話さないわけにいかなかった。 なぜなら寿自身も、ここがどこなのか知りたいからだ。 「会うのたのしみ?」 寿は笑顔をかえした。 「うん……楽しみだな」 |