その日は、案外はやくやって来た。


 深夜だ。
 サーシャも寝床に帰ってしまい、寝つけなくて何度も寝返りをうっていた寿は、ふと小屋の外
で数人の足音がするのに気付いて体を起こした。
「……?」
 もしや役人にバレたのだろうか。一番可能性が高いのは、セサルかファビオだが……セサルは
夕食をとった後に寿を置いてどこかへ行ってしまったし、ファビオにいたっては今日のような時
間に訪れたことがなかった。
 足音だけで人数を判別できるような技能はもっていないが、寿は耳をすます。いざというとき
には隠れなければならないだろう。
「……こちらです」
 声が聞こえた。
(セサル?)
 確かに聞き覚えのある声に、寿はほっと力を抜いた。だが、誰を案内しているのか。
「入りますよ」
 やんわりとした抑揚のセサルの声音は、僅かに緊張しているようだ。
「……どうぞ」
 予感が、寿の肌を粟立てた。
 きぃ、と。
 音をたててドアが開く。
 ――寿は息を呑んだ。
 開け放ったドアから、月光が射しこむ。眩しいほど丸く大きな満月を背負って、男が一人立っ
ていた。
 輪郭を淡い金色の光が照らし出し、なにか強い力を支配しているように見えた。いっそ幻想的
でさえあるはずの光景なのに、面に浮かぶ二つの琥珀色の双眸がぎらりと鋭く、寿は全身を戦慄
かせた。
「――コトブキ」
 ファビオの声に、寿はようやく瞬きを許された。
「彼が、アッシュです」
 セサルの言葉にアッシュと紹介された青年は、唇を吊り上げた。そうすると、恐れさえ抱かせ
るような無表情は、途端に大胆不敵な悪ガキみたく崩れる。一筋縄ではいかない、けれどそこが
魅力的だと人に思わせるような――そんな男だった。
「よろしく、コトブキ?」
 琥珀の瞳が寿を映して、炯々と輝いた。



 小屋の前に佇んで、ファビオは思わず苦笑した。見張りのつもりでいるのだが、果たしてその
必要があるのか――いや、自分やセサルにしてみれば是非もないが、当のアッシュなら鼻で嗤っ
て不要だと吐き捨てるだろう。まったく、守り甲斐のない気性をした男だ。
 ファビオは小屋の壁に背中を預けた。
「いいのか、あいつら二人にして」
 涼やかな顔をした男は、奴隷にしては相変わらず妙に整った姿勢で夜空を仰いでいた目を、ち
らりとファビオに寄越した。
「いくら彼とはいえ、怪我人に塩をすりこむような真似はしないでしょう。大丈夫ですよ」
「そうかねぇ」
 塩はすりこまなくても、その鞭打たれたばかりの怪我人を踏みつけるような人間なのだが。
「つーか、なぁ」
 ファビオは喉で笑った。
「オレが言ってんのは、あんなどこの誰とも分からんような不審人物と二人だけにして、万が一
アッシュに何かあったら、ってことだったんだがな?」
「――、」
 セサルは半瞬、呼吸を止めた。
「ずいぶんとまぁ、情がうつったみてぇだが……懐いたのは一体どっちかね」
「私の方だと?」
「それはお前さん次第だろ」
 きつい表情を浮かべていたセサルが、ふ、と呼気を吐き出してうっすらと苦笑をのぼらせた。
「もっともですが……それは貴方も他人のことを言えないのでは?」
「まぁな」
 ファビオは首筋を掻いた。
「どうみても、あの坊ちゃんに害意があるようには思えねぇんだよ」
「……坊ちゃん、ですか」
 くす、とセサルが笑みを零す。
「なかなか、うまいことを仰る」
「その通りだろ。体のつくりからして、いまのオレらみてぇな奴隷労働どころか、まともに働い
たことすらねぇのはまず間違いないな」
「ええ、育ちも良さそうですよ」
 セサルがおっとりと付け加えた。
「喋れないのは他国の生まれのせいかと思いましたが……それだけでは、あれほど世間知らずに
は育たないでしょう」
 ファビオが大きく息をついた。
「けど、貴族じゃねぇんだろう?」
「おそらく」
 ファビオと同じく、セサルの柔和な茶の目が鋭く眇められる。
「もしやと思って彼らなら知っているようなことを幾つか質問してみましたが、戸惑うばかりで
無反応でした。……そもそも貴族に生まれた子供が、こんな服を着て、粗末な食事に文句も言わ
ず諾々と受け入れるなど、ありえないんですよ」
「……労働の方も、慣れちゃいないみてぇだったが、きっちり真面目にこなしてたぜ」
 ファビオとセサルは顔を見合わせて、眉を顰める。
「ここまでまったく生まれが知れない人間ってのも珍しいよな」
「ええ」
 そうして、二人は小屋へ目を移した。
「……なんにせよ、すべてを決めるのはアッシュです」
「……そこが難点なんじゃねぇの」
 セサルとファビオは、同時に溜め息をついた。



 セサルもファビオも小屋から出て行ってしまい、二人きりになった寿は、ごくりと喉を鳴らし
た。居心地が悪く、緊張する。
「……あなたが、アッシュさん」
「そうだ」
 胡坐をかいた膝に頬杖をつく青年に、寿は圧倒されていた。
 小麦色の肌は艶がありなめらかで、粗末な服は破れて裾など裂けているのに、そこから伸びる
長い手足は均整のとれた筋肉がついて美しかった。彫りの深い、くっきりとした面立ちは華やか
としか言いようがない。整った柳眉、高く通った鼻筋、形の良い唇に浮かぶ笑みはシニカルだっ
たが、それがかえって人を惹きつけるに違いなかった。
(すご、い……)
 わけもなくそう思った。
 何より、寿を品定めするみたくあからさまな揶揄を滲ませる琥珀色の双眸。猛禽や、野生の獣
の瞳がこんなふうだろうか。理性と感情がごた混ぜになって境なく、けれど本能が何より強い冷
酷で物憂げな、不可思議な奥行きのある苛烈な瞳だった。
 いまにもこの身を食い破られそうな野放しの獣そのものの雰囲気で人を動けなくさせるくせに、
それとは別のどこかで強烈に彼に惹かれてしまう。
 ――怖いのに、近づきたい。
 そんな気持ちを抱かせるような、青年だった。
「あ、の……」
 何度も唾を飲み込み、寿はとりあえず頭を下げる。
「ありがとうございます」
「なにが」
「おれを助けてくれたんですよね……?」
 おずおずと上目で見れば、アッシュと名乗った青年は可笑しそうに笑った。
「気にするな。俺はてめぇを踏んだだけだ」
「……え?」
 寿は思わず静止する。
(え、ふんだ……?)
 何を。
 ――そういえば、鞭でうたれて地面に転がっていたとき、何か背中に衝撃を受けて意識が遠の
いたのではなかったか。
「ま、結果からいうと助けたことになるんだろうが?」
 うっかり思い出さなくてもいいことを思い出しそうになった寿だったが、笑みを帯びた言葉に
慌ててまた頭をさげた。
「あ、ありがとうございました……」
 下げつつ、少々疑問に思う。
(……で、いいんだよな?)
 アッシュは鷹揚に頷いた。
「ああ。けど、そんなに畏まる必要なんかねぇな。てめぇは、あのガキを救った」
「……あのガキ?」
 それはサーシャが言っていた少女だろうか。
 アッシュがふと目を細めた。
「何も知らねぇのか」
「……?」
 寿は首を傾げる。
「あのままだったら、あのガキは、あのクソおやじにヤり殺されてたろう」
「やり……?」
 殺されていた、という不穏な言葉に眉をひそめた寿に、アッシュはああと首肯した。
「言葉が分かんねぇんだっけな……」
 頭を掻いてアッシュは言った。
 男と女が主に夜にやることだよ、とそこまで言われて、寿はようやく理解した。なにせ思春期
なもので、顔が赤くなる。
「……って、えぇ!?」
 そして気付く。
(だって、それってあの男があの子を……!?)
 愕然とする。
「え、あの、あの女の子、まだすごく小さかったけど」
「そんなのが好きな下衆もいんだよ」
 げす、という単語はよく分からなかったが、言いたいことはだいたい察することができた。
(さ…最低だ……!)
 アッシュの言いようから、こちらの世界でも子供にそういう行為を強いるのは悪いことだとい
うのが理解できた。それで少しだけ、安心する。あれが普通だと言われたら、とてもやっていけ
ないだろう。
「……信じられない」
 顔色を青くした寿をしげしげと眺めて、アッシュは首を傾げる。
「へぇ……」
 含むところのある表情に、寿は少しだけ眉を顰める。
「なんですか」
「アンタみてぇのでも、そう思うんだなって話だ」
「……おれみたいなの?」
「そうだろ?」
 ふいに物騒な笑みをひらめかせたアッシュに、寿はぐいと腕をとられた。
「ぃた……っ」
 遠慮のない力で握られて、寿は思わず声をあげる。同じ男だというのに、抗えない差があった。
「何する……!」
 き、と睨みつけた先、寿とアッシュの目線が交わる。寿は悲鳴を噛み殺した。琥珀色の眼が、
冷酷な光をたたえて寿を射抜いていた。
「てめぇ、何者だ」
「……っ」
 息を呑む。
「っつ……!」
 寿の腕を掴んだ手に、力がこもる。上に引きあげられて、鞭で打たれた肩が激しく軋んだ。
 ぶつかりそうなほど間近に、詰め寄られる。
「ほせぇ腕だな。……足もそうだ、走ったことなんかねぇんじゃねぇの。顔も珍しいつくりして
るし、肌の色も見たことないぜ?」
「……っ」
「おまけに喋れねぇ、物も知らねぇ。そのくせ無警戒で無鉄砲で、あんなことしでかしやがって」
 ぎり、短い爪が腕に食い込んだ。
 恫喝のように耳元で囁かれる。
「おまえ、どこから来た……?」
 はく、と寿は浅く息を吸い込んだ。
 ――どこから。
(……それは)
 寿が答えても構わないものなのだろうか。答えられるものなんかではないのに。むしろ、こっ
ちが教えてほしい。
 ぎらぎらと眼を光らせて答えを待つアッシュに、寿はきりりと唇を噛んだ。
「どこから……?」
「……」
「それは、おれにも分かんない」
「あぁ?」
 骨が軋むほどに腕を掴んでくるアッシュの手に、寿は触れる。
 この感触は本物だろうか。
 ――頭のおかしい自分の、夢想ではなかろうか。
 寿は笑った。
 泣きそうな顔で、歪んだ笑みをつくる。
 怪訝な表情をしたアッシュに、寿は吐息で告げた。


 どこからと問われれば――多分、ちがうせかいから。


ここはどこですか。
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