言ってしまってから、寿は後悔した。 「うぁ……っ」 容赦のない力で床の上に引き倒されて、寿は小さく呻きをあげた。鞭で打たれた肩が熱く痛み、 掴まれている腕の骨がおそろしい勢いで軋む。 「馬鹿にしてんのか」 低い声は冷え冷えとしていた。 霞む片目を開けて仰ぎ見れば、ギリシャ彫刻のように整った顔が静かな怒気を湛えて寿を見下 ろしている。顔を酷く歪めているわけでもないその表情は、けれど余計に寿の恐怖心を煽った。 「どこの出身だと聞いてんだ」 「……もう言った」 反抗的な寿の答えに、アッシュの喉がくつりと鳴る。 「違う世界だと? 意味わかんねぇんだよ、馬鹿が」 「……」 寿は沈黙する。 落胆のあまり、笑い出してしまいそうだ。 (――ほらな) やっぱり。 予想と違わない反応に、寿は片頬を歪める。誰でもそう言われれば、鼻で嗤うか怒るかだろう。 それほど荒唐無稽で馬鹿馬鹿しいことを言ったという自覚はある。 あるけれど――それが、事実だった場合はどうすればいいのだろう。 「つまんねぇ嘘ついてねぇで、早く答えろ」 その言葉に、寿はひゅ、と息を吸い込んだ。 「……そじゃない」 「あぁ?」 「うそじゃない……!」 寿は叫んだ。 喉が痛い。 頭が破裂しそうで――これは怒りだった。 「うそなんかじゃ、ない!」 掴まれている腕に力を込め、激痛が走るのも無視して、寿は初めて抵抗した。やみくもに手足 をばかつかせる。 「暴れんな」 大した抵抗にはならなかった。アッシュは軽々と寿を押さえ込む。子供の癇癪を宥めるより容 易く、寿は床に四肢を縫いとめられた。 (くそ……っ) 悔しい。 病み上がりの体で無茶をしすぎたのか、寿は早々に息切れをして床に沈みこんだ。血走って涙 の浮かんだ目で、自分を押さえ込む男を睨み上げる。 アッシュは面倒くさそうに溜め息を落とした。 「なんなんだよ、てめぇは」 寿は奥歯を齟み締める。 「……おれは、ニホンから来た」 「にほん?」 アッシュが怪訝な顔をする。寿は頷いた。 ――もう、どうでもいい。 そんな気には到底なれない。証明したかった。この、寿に勝手をする男に、嘘だと言う男に、 分からせたかった。抗いたかった。彼だけでなく、寿に理不尽を押し付ける全ての何かに。 叫びだしたい衝動を呑み込んで、寿は浅い息で口を開いた。 「ニホンの、トウキョウというところから来た。名前は、ヒノワコトブキ。ヒノワが姓で、コト ブキが名だ。家族は父と母の二人、おれは十六歳でニホンではコウコウセイだった」 「こうこう……?」 「そうだ。ニホンの他にも、アメリカやイギリス、ロシア、フランス、ドイツ、チュウゴク、カ ンコクとか色々な国のあるところだった」 そこまで一気に言い切ってしまってからようやく、アッシュの表情に色濃い疑念が浮かぶ。 「……聞いたことねぇぞ、そんな国」 「でも、おれのところじゃ有名な、大きな国の名前ばかりだ」 「……頭、」 「おかしくない!」 感情が許容量いっぱいに膨らんで弾けそうで苦しい。 アッシュは眉を寄せた。 「……その、ニホンってのはどんな国だ」 「どんな……おれみたいな、ニホン人の国だよ。髪と目が黒くて、茶色の人もいるけど。肌の色 はおれみたいな黄色で。こんな荒野みたいな場所はないし、小さい砂漠みたいな……サキュウは あるけど」 「なんだそれ」 「砂の、丘」 「ああ、砂丘な」 「うん……島国なんだ。四季があって、春にはサクラっていう花が咲く。ピンク色できれいな… …、冬には雪がふる。街はビルとか家がたくさんたってて、みんな仕事に行く。子供は学校に」 「――みんな?」 僅か、驚いたようなアッシュの声に、寿は首肯した。 「朝、大人は仕事に行って、子供は学校に行く。夕方になったら、家に帰るんだ」 「……それは、みな奴隷か町民だという意味か?」 「ちがう」 寿は首を振る。 「身分はないんだ」 アッシュは琥珀色の双眸を大きく瞠った。それは、寿の初めて見る彼の無防備な表情だ。 「奴隷なんかいないし、みんな同じなんだよ。お金持ちとか、政治をする人とかは特別だったり するけど、それはその人の立場であって、おれらがその人より下とか、そういうのはないんだ」 天皇はいるけれど、そのへんは割愛することにする。寿のような年齢の一般人にしてみたら、 彼らに民族的な敬愛はあっても畏敬の念は既にないからだ。それに、彼らは彼らで日々忙しく仕 事をしており、立場的な拘束も厳しい。贅沢はしているかもしれないが、ただ遊んで暮らせてい るわけではないので、こちらでいう貴族や王族などとは意味合いが違うだろう。 それを説明するには、寿のいまの語彙では難しすぎた。 「……他の国があるといったな」 「うん」 「そこには、奴隷がいるのか」 寿は少し考えた。 「ほとんどの国は、いないよ。でも、最近までいたところもあるし、ずっと前になくなったとこ ろもある」 日本でも名前が違うだけで似たような階級の人々が昔、いた。いまでは寿たち年齢の子供には まったく意識されなくなったけれど、確かに昔はいたのだ。 「でも――みんな同じなんだ。国がちがっても、肌の色がちがっても、生まれがちがっても」 そこに真の優劣はない。 平等とは、寿がいた世界がいま目指しているのは、そういうことだろう。 「……」 言うと、アッシュの手から力が抜けた。 寿は解放された腕をさすりながら、体を起こす。無理のせいで、あちこちの痛みがぶり返して いたが、気分は悪くなかった。言いたいことを外に出してしまったおかげだろうか。 アッシュの強い色の浮かぶ眼を見据える。 「……おれは、帰るとちゅうコウシャの階段から足をすべらせて落ちたんだ。気絶して――気が ついたら、ここにいた」 「――……」 失笑。いや、苦笑かもしれない。唇を歪めたアッシュが、寿から離れて座りなおす。その様子 に、もう攻撃的な雰囲気は含まれていなかった。 「なるほど?」 そして、短い髪をかきあげる。 寿も彼と同じように姿勢を正した。 (……さぁ、何を言われる?) 信じてもらえたのだろうか。それとも、また嘘つきだと罵られるのか、または頭がおかしいと 憐れまれるのか。 それらのどの反応にしろ、覚悟が要った。 ふ、とアッシュは短く息を吐いて。 「――ここは、第四十八代に立つラフィタ王のフエンリャーナ家が治める国、エレシウス王国だ」 寿は目を見開く。 「え、えれ……?」 「国の規模でいったら世界で十指に入るぞ」 「十……」 それはかなり大きいのではないだろうか。 寿は呆然とする。 「……聞いたこともない」 「ちなみに言っておくと、ラフィタ王はもう長くないっつー話だ。オレ達がつくってんのは、そ のじぃさんが入る棺桶」 「は……えぇ!?」 つまり、王墓ということか。 (そんなもん掘らされてんの!?) 確かに寿のいた世界にも奴隷はいただろうけれど、そんなピラミッドや古墳をつくった時代じ ゃあるまいし、わざわざ墓をつくるために働かされるようなことはなかったはずだ。ナンセンス というほかない。馬鹿じゃないのか。 呆気にとられた寿の顔をつくづく眺めて、アッシュは唇を吊り上げた。 「なるほどな」 浮かぶのは、満面の笑み。 「面白ぇ。――コトブキ、お前、本当に異世界からきたらしいぜ?」 信じてやるよ、と。 言われても、正直嬉しくないのだが。 寿はくらりと目眩を覚える。アッシュの浮かべた笑みは、たとえるなら玩具や獲物をみつけた 猫のようだった。 |