ギリシャ彫刻のように整ったアッシュの笑顔は非常に魅力的だったが、かえっていっそ清々し
いほど胡散臭かった。
 アッシュの乱暴のせいで痛む体をもぞもぞと動かして、楽な姿勢を探る。積みあがった木箱に
そっと背を預け、足を投げ出してから寿は一息ついた。
「……あなたたちが何をしているか?」
「そう」
 きれいに薄い唇が弧を描く笑みは、チェシャ猫のようだ。
 寿は思わず眉をひそめる。
「気になってんだろ? どうしてこういう小屋を自由に使えるのか、てめぇを匿ったのか、とか
よ」
 寿は渋々頷いた。
「……いくら奴隷が何百人もいるからって、セサルもファビオも、あんなに自由に動けるものな
のか?」
 役人が奴隷の数を把握していないといっても、一度与えられた持ち場が変わることはそうそう
ないし、おざなりとはいえ監視だってついている。――そもそも、サボっただけで鞭打たれるよ
うなところだ、持ち場から完全に離れていることがバレたら絶対に酷いことになるだろう。
(……そのリスクを冒さなきゃならない必要があるってこと?)
 そこまで考えて、はたと寿は顔をあげた。
 こちらに視線を寄越すアッシュの琥珀の目はにやにやと、愉快気な光を浮かべている。
「……何をたくらんでる?」
 にぃ、とアッシュの口角がつりあがる。
「企む?」
「うん」
「物騒な言い方すんなぁ」
「じゃあ、ぶっそうじゃないの」
 ふ、と嘆息のような一息。
「いいや」
 ぎらりと刃のように、アッシュの双眸が金色に光った。
「いいや――物騒だぜ。とんでもなくな」
 寿は半瞬、呼吸を止める。
 予想していたこととはいえ、緊張で臓腑が浮つくような感覚をおぼえた。いままでにない大事
が、途方もないリアリティで迫ってくる予感。
(……もしかしたら、とんでもない人と関わってしまったのかもしんない……)
 今更ながらに後悔しそうになりながら、寿はぎこちなく呼気を吐き出した。
「……それで、何を企んでるって?」
 アッシュは小首を傾げた。
「コトブキ、お前、セサルにこの国のことは習ったか?」
「ううん」
 名前を聞いたのさえ、ついさっきだった。
「……あ、でも奴隷と貴族がいることは教わったけど」
「ああ」
 アッシュは頷くと、手を寿に掲げてみせた。親指から折ってゆく。
「この国の身分階級は、いたって単純だ。まず、俺たち奴隷。次に平民、貴族、王族。王は言う
までもねぇから除外な」
 親指から薬指まで折られたアッシュの手を見て、寿は首を傾げた。
「四つだけ?」
「基本はな。ただ、平民のなかでも血統はなくても商人やら金持ち連中は幅をきかせてるし、王
族ってーのも、ころころ変わる」
「……変わる?」
「ああ。ウチの国はそこらへんが変わってんだよ」
 言って、アッシュは少し考えるような素振りをみせた。
「まず王だが、エレシウスの王位は、貴族のなかでも特に有力な幾つかの一族のうちから選ぶよ
うになってる」
「……だから、王さまごとに、『王族』が変わる?」
「そうなるな。いまの四十八代国王は、フエンリャーナ家の出だ」
 ということは、
「いまの王族は、ふえんりゃーな家?」
 やたら長い名前を噛みそうになりながら口にした寿を、アッシュは皮肉な顔で肯定した。
「王はもちろん最高権力者だけどな、王の一族も当然強ぇ力を持つわけだ」
「うん」
 それは何しろ、身分階級の天辺に登りつめるのだから、そうだろう。
「先代も先々代も、王族はフエンリャーナだったぜ」
 寿は息をつめた。
 三代続けてということになる。それは、
「……ぐうぜん」
「なわけねーだろが」
 アッシュは鼻で嗤い捨てた。
「黒い噂がたんまりあるぜ。そもそも現王座も、ハルフテル家の者がたつって決まってたっての
に、なぜかフエンリャーナのラフィタが王になってるし?」
 寿は目を瞠った。
「……まさか暗殺、」
「つー噂もあるな。真相は分からん」
 アッシュはあっさりと首を振った。
「この制度は建国時、特定の貴族ばかりが権力を専横しねぇために敷かれたもんだって話だがい
まとなっちゃ、競争率上げただけの愚策だな。代替わりの度に『上』が落ちつかねぇから、国民
の暮らしも安定しねぇ」
 寿は曖昧に頷く。
 貴族だ王族だと言われても、いまいち実感がないので他人事なのだが、確かにアッシュの言う
ことにも一理あるのだろう。代替わりをるすたびに貴族間で内乱が起きれば、それは国が落ち着
くわけがないと思う。
「このエレシウスで王族の他に身分階級が変わることはない――ただ一つの場合を除いて」
 寿は眉を寄せる。
「……それは?」
 アッシュは嘲るように続けた。
「奴隷になる場合」
「――…」
 言葉をなくした寿に、アッシュは目を細めてみせる。
「異世界から来たとかいうてめぇも、少しでもここにいたら分かんだろ? 奴隷がどういう扱い
を受けんのか。奴隷同士のガキが生まれるのを待ってちゃ、到底追いつかねぇんだよ。だから、
貴族や金持ち連中が文句をつけちゃ、身寄りのねぇガキや、逆らうような奴、その家族、他国か
らも攫ってくるような始末だ」
 寿は絶句する。
 確かに、寿がいた世界でもそれはあった話だ。臓器の密売など、他人事ではあったが――。
 そして思い出す。ここにきて、毎朝毎朝、淡々と尽きることなく転がりつづける死体たち。増
えることはあっても、減ることはないその数に、寿は恐々としたのだった。
 彼らは、もう動かない。
 人生が終わった。
 終わらされた。
 ――他人の墓を掘るだなんて、馬鹿みたいな理由のために。
(……なんで?)
 彼らの人生には、その死の理由には、意味があったのだろうか。人間なら誰しも人として求め
る権利のある、自分の『生きる意味』を認められなかった彼らは。
「信じられねぇか?」
 揶揄するように窺ってくるアッシュに、寿は目を戻す。
「……いや。そういうことも、あると思う」
「へぇ」
「――アッシュたちは、それを止めさせるつもりなのか?」
 褐色の精悍な頬が、愉快げに緩んだ。
「違ぇ」
 寿は答えを待つ。アッシュは一息置いて、
「国がどうとか、制度がどうとか、そんなお偉いことは考えちゃいねぇよ。俺はただ、『他人に
使われる』ことが気に食わねぇ」
 寿は瞬いた。
 アッシュは獰猛な笑みを金に光る双眸に浮かべた。
「俺は、なにものにも支配されねぇ。絶対にだ」
 支配されることを、許さない。
「俺の命は、俺の好きなようにつかう――誰にも文句は言わせねぇよ」
 ――言い放ったアッシュに、寿は見惚れた。
 何者の言いなりにもならない。誰にも阿るような真似はしない。媚びることも、へつらうこと
も、追従することもしない。
 なぜなら自分に命令できるのは、自分だけだと決めたからだ。
 いつか必ずくるその死でさえ、己で決める。
「アッシュ……」
 それは誇りだろうか。
 その程度の言葉で括れるようなものではない気がした。
 いつか見た、途方もなく広大な草原で独り佇むチーターや豹のようだ。鮮やかな生命力をみせ
つける反面、なにか命を削るように駆けてみせる。草を踏みつけ地を抉り風を振り切って、ただ
おそろしいほどの速さで獲物を狩って生きる獣。
(……まぶしい)
 泥で汚れた肌も、ぼろ切れのようになった服も、彼のいう絶対的な奴隷という身分でさえ、真
にアッシュを損なうことはできないだろう。
 朧な月明かりに照らされた金髪と、夜の闇に浮き上がる琥珀の眼を、陽の下で見たかった。
「アッシュは――何をするつもりなんだ?」
 鮮烈な獣の瞳が、寿を射抜く。

「奴隷の解放――」

 寿は息を呑んだ。


金の髪、金の眸、まるで王のあかしだった
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