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 アダンは市民階級の出だった。
 なんの変哲もない。裕福でも貧乏でもない家の生まれだ。上には兄が三人いた。いずれも善良
といわれる類の性格をしており、しかし少々こズルいところもあった。それもまた、ごく普通と
いわれるものだった。恥じるところもないが、誇るところもない平凡な。
 温かく、全員が揃う夕飯、穏やかだが気弱な父、彼を支える母、賑やかな兄弟たち――なにひ
とつとして不満などないだろうと思われる家庭で、しかしアダンは常に思っていた。

 このままで終わって、たまるか。

 身分は一生変わることはない。だが――役人になれば話は別だ。
 ある意味で、同じ市民階級でありながら自分たちを睥睨し嘲笑する成金商人や、場合によって
は貴族よりも権力を得ることができる。
 だから、アダンはその職を選んだ。
 力が欲しかったのだ。
 他人を従わせ、畏怖させるための力が欲しかった。
 そのために、アダンは労務管理局に配属されるよう根回しさえした。奴隷を売買し、鞭打って
働かせ、役に立たなくなった奴隷を処分するその仕事は、一般人の間でも役人の間でも忌避され
ている。が、それゆえに"上"から優遇された。出世も早い。
 だから、反対した家族を捨てて家を出た。
 後悔はしていない。
 自分を止める彼らを邪魔だと思った。
 やがて念願叶い――――奴隷を顎で使うのは、愉しかった。そう、愉しかったのだ。
 初めて自分以外の人間を使役する愉悦。優越感。征服感に支配感。たまらなかった。これこそ、
自分が求めたものだ。
 アダンは満足していた……最近までは。


「なぜですか!?」
 アダンの怒声に、監理棟で最も豪華な執務室の椅子に深く背を預けた男は眉根を寄せた。
「……落ち着きたまえ、アダン二長」
「しかし、ベニート三長、ヤツは危険です!」
「だから……落ち着けといっているのだよ、二長」
 やや鋭い声音に、アダンは仕方なく口を閉じる。ベニートは大きく溜め息をついて、憤慨する
部下を冷めた目で見下ろした。
(……くそ)
 アダンは心中で吐き捨てる。
 ベニートは椅子に座っている分、自分より下の位置にいるというのに、どうも見下されている
気がした。事実、心情的にはそうなのだろうと思えばアダンは余計に腹立たしい。
「聞くが、アダン二長……君が危険だという、その……」
「アッシュです」
「アッシュとかいう奴隷、それが何かしたという証拠はあるのかね?」
 アダンは意気込んだ。
「ありません。しかし、ヤツは絶対に何か企んでいます!」
「……何か、かね」
「そうです!」
 断言したアダンをちらりと見上げたベニートの顔に、軽蔑と憐憫がまざりあった微妙な色が微
かに浮かんだ。
「その何かが分からないと、動きようがないのだがね」
「あいつらは時々、仕事を抜けてどこかに行っています。何かあるに違いありません」
 どこか、何か。続く単語の曖昧さにベニートはつくづくと吐息を吐いた。
「中には怠けるものもいるだろうが、気にする必要があるかね? 一人として逃げることなどで
きんのだ。……どうせ、あれらすべてはここで死ぬ」
 物憂げな上司は、これ以上アダンの相手をするのは無駄だという心情を隠しもしない。
 アダンは歯軋りした。
「……っだいたい、わたしは奴らに火薬を触らせるのにも反対なのです! 作業は仕方がないに
しても、管理は我々でやるべきです!」
「みなの承認は得られんだろう」
「三長が認可してくだされば……っ」
「わたしは反対なのだよ」
 ふいに断固とした口調で視線を尖らせた上司に、アダンは言葉に詰まった。
「そもそも、二長。君はアッシュという奴隷を目の敵にしているようだが、何かあったのかね?
報告はきていないようだが」
「それは、いえ……」
 アダンは言いよどむ。奴隷の少女と関係を持とうとしたところを邪魔されたなどと、それも上
司の貴方がいないうちに、とはとても言えなかった。
「反抗されたものですから……」
 この程度の言い訳が精々だ。理由が理由なだけに、おおっぴらに奴らを糾弾することはできな
いのだ――この段階に至って、アダンはようやく悟った。
 あのアッシュという奴隷も、こうなることを見越していたのかもしれない。
(そうだとしたら……)
 虚仮にされた。
 アダンはこめかみが浮き立ちそうになるのを必死で抑えた。
 そうだ、まだ終わっていない。この男に認めさせさえすれば――しかし、ベニートは先程の疲
弊した様子とは一転して、声に力をこめた。
「アダン二長。……本当に、まだこれ以上話すことが?」
 ありありと不機嫌が滲む口調。
 く、とアダンは息をつめた。これ以上粘っても、成果は得られないだろう。
「……いいえ」
「では退出したまえ。君も仕事があるだろう」
 つまらないことにかまけているな、と言外に告げた上司から、アダンは顔を隠すように下を向
いて腰を折った。
「失礼します……」
 後ろ手に静かに扉を閉める。――その顔は、怒りと屈辱に歪んでいた。
「くそっ……!」
 小さく毒づく。この場では、それ以外にできることなどなかった。
 そのまま拳を握り、足音も荒く歩き出す。ベニートの言う通り、仕事の途中なのは確かだった。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
 あのベニートの目、苛立たしいったらない。
(人を見下しやがって)
 しかし、それ以上に……あの、金髪の男と、黒髪の奇妙な風貌をした少年だ。
(奴隷のくせに歯向かいやがって……!)
 人を食ったような物言い、反抗的な目つき、軽蔑の眼差し――奴隷のくせに、
(このオレを軽蔑だと!?)
 ベニートも気に入らないが、あいつらには殺したいほど腹が立つ。おまけに、今回の件で上司
の不興を買ったのは間違いないだろう。
 現場での出世は、直轄の上司の判断によるところが大きい。
 もう一度舌打ちをすると、アダンは立ち止まった。管理棟の廊下は、人気なく暗い。彼の表情
は、一際濃く影が射している。
「……みてろ」
 このままですませておくつもりはない。
 執念のこもった呟きを聞く者はなく、あとはただ、歯軋りの音だけが小さく響いた。


                 ◇   ◇   ◇


許さない
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