地下迷宮


 療養生活も一週間を過ぎた。動けないでいる体はめっきり固くなってしまって、突然動かすと
軋んでしまう。
「うー……」
 ひとつ大きく伸びをした寿の足元で、気だるげに胡坐を組んで座っていたアッシュが呆れたよ
うに欠伸をした。
「動けるようになったか?」
「うん、まぁまぁ」
 頷いてアッシュの隣に座った寿の手を、彼は無造作に取って眼前まで持ち上げた。
「ひっでぇ手」
 そう言ってからかうように口の端を上げてみせる。
「かよわいねぇ」
「うっるさいよ」
 振り払うように手を取り戻して、寿はふんと鼻息を荒くした。
「どうせおれは貧弱ですよ」
 寿の掌は皮が剥げ、じゅくじゅくに潰れた肉刺だらけだった。治ってきてはいるものの、未だ
膿みのような黄色い汁が滲んでいるものもあって、なかなかに痛々しい見た目だ。そのうえ、労
働の負荷に耐えかねて爪も幾つか割れて欠けてしまっていた。
 実際のところかなり痛んだが、アッシュたちに保護されるまではいまよりもっと酷い状態だっ
たことを考えれば、やはりマシになってきているのだろう。
「よくこの手で作業なんかやれたな、お前」
 寿は苦笑する。
「だって、我慢するしかないじゃん」
 誰が助けてくれるでもなし。訴えれば、更に悲惨な状況が待っているに違いなかった。
 アッシュは膝に頬杖をつく。
「ま、その通りか」
 過酷な肉体労働が寿に残した傷は、掌だけではない。
 例えば肩や、背中。
 ずっしりと重量のある土を背負う肩には赤黒くくっきりと跡がつき、背中は擦れて擦過傷がで
きている。いずれも触れれば痛みを伴った。
 足もそうだ。
 靴なんて上等なものは支給されない。この世界に来たときには履いていたコンバースのスニー
カーも、気絶していた間に学生服と一緒に剥ぎ取られてしまったようで、気がついたらなくなっ
ていた。
 靴下と靴に慣れきった足は寿が予想したよりも繊細だったらしく、一日で肉刺や切り傷だらけ
になってしまった。地面の細かな砂でさえ凶器になった。
 寿は溜め息をつく。
「……ここに来て、いかに自分がひ弱なのか思い知ったよ」
「あぁ……」
 同意するように呟いて、アッシュの琥珀色の目がしみじみと寿の全身を眺め見た。表情に浮か
ぶのは、驚きと呆れ。
「白くて柔らけぇ肌、細ぇ手足、おまけに腕力、体力もさほどねーだろ……とても男とは思えね
ぇな。女みてぇ。それも、働いたことなんか一切ありませんってかんじの貴族の女」
 アッシュはいっそ感嘆するように言う。
 寿は顔をしかめた。
「それなら、おれの居た世界の同年代のやつらはみんな、貴族の女の人みたいだってことになる
けど?」
「信じらんねぇ」
 け、とアッシュは吐き捨てる。
「随分とお気楽な世界だな」
「世界っていうか、おれがいた国だけど……」
 言い訳するように呟いてから、寿はそっとアッシュを窺った。
 彼の生い立ちなど聞いたこともない。興味はあったけれど、出会って幾日も経っていない相手
のプライベートに立ち入るのは気がひけたし、そもそも会話することに慣れたとはいえ、アッシ
ュの覇気や言動はしばしば寿を気後れさせた。
 セサルやファビオもそうだが、アッシュはこれまで寿の生まれ育った環境にはいないタイプの
人間だ。
 性格も思考も、掴みきれない。
 ――ただ、強いのだと、それだけは分かっていた。
 だから、怖いと思うのかもしれない。
 寿は頭の片隅でぼんやりと考える。
 自分は弱いのだろう。弱いなんて思いたくないけれど、それでもやっぱり、どうしても弱いの
だ。あの、鞭打たれる屈辱を寿に与えた男に逆らえなかった程度には――弱いのだ。
 ゆえに、強いアッシュを本能的に怖れてしまうのかもしれなかった。あらゆる意味で。
(ほぼ、"未知の生物"だもんな……)
 寿は吐息する。
 その未知の生物であるアッシュは、果たして本当に寿の話を信じたのか。異世界から来たとい
う、荒唐無稽な戯言を。
 一度は、信じると口に出した。
 それ以来アッシュは思い立ったように寿に"異世界"――この場合は寿のいた世界だ――の話を
聞いてくる。
 好奇心か、疑心か。
 どちらにしろ断る理由などない寿は、促されるままに口を開いている。
 寿が世界を語る。
 日本を語る。
 友人の話、家族の話、人間関係や、おぼろげな政治、ニュースのこと、半端な知識から絞り出
す世界情勢――いずれもアッシュは嘲るように、馬鹿にしたように片頬に笑みめいたものを滲ま
せる。
 このときも。
 寿はつい、尋ねていた。
「……アッシュは、お気楽な世界は嫌いなんだ?」
「あ?」
 怪訝そうな声は、不機嫌にも聞こえる。
 はた、と口元を押さえそうになるが、声に出してしまったものは無かったことにできない。寿
は仕方なく、尋ね直した。
「お気楽な世界は、気に入らないって聞こえるけど……」
 いじけたような声音になってしまったかもしれない。
 アッシュは鼻の端で嗤った。
「別に、気に入らないなんて言ってねぇよ」
「でもそう思ってる?」
「いいや。平和で結構なことだと思うぜ?」
 じゃあどうして――と言いさして、寿はふと口を噤んだ。
 アッシュの表情に、見覚えがあるような気がして。いや――彼は常時、皮肉気な、いっそ不満
といってもいい顔をしているかもしれない。
 それは、
(それは――……)
 寿は眉を寄せた。
「もしかして、この世界……この国と比べてんの?」
「――、」
 小麦色の精悍な頬に浮かぶ、シニカルな笑みは変わらない。
 正解、と言っているように思えた。
(おれは、まだ何も分かってないのかもしれない)
 アッシュたちレジスタンスの仲間に入れてもらっても、人間として最下級の奴隷として労働を
強いられても、まだ何ひとつとして大事なことを分かっていないのかもしれない。
 ……『奴隷』に対しての嫌悪感は確かにあった。生理的な、偏見や道徳観念から生まれる忌避
感はあるし、自分がそういうものになるのも嫌だと思う。
 だが正直なところ、『お前は奴隷だ』といわれても寿にその意識はないに等しい。奴隷になっ
たつもりもなければ、その辱めを押し付けられてもいまいちピンときていない。あの鞭で打たれ
た一件を別にすれば。
 同じ奴隷と呼ばれる人たちにしたって同じだ。
 目の前に唐突に現れた人々を、こいつらは奴隷なんだ、と言われてもいまいち実感がない。初
めて目にした馬車の荷台に詰め込まれているときに感じたのは、ただただ恐怖と不清潔感に募る
不快と嫌悪。
 見下す、という感情はなかった……と、思う。
 奴隷たちの中に放り込まれて、彼らの身なりを見て『汚い』と思うことはあるし、できれば汚
いものには近寄りたくもない。なにしろ寿は、清潔が売りの日本で生まれ育ったのだから。それ
はもう生い立ちゆえの完成された価値観として寿の中に根付いていたけれど――いまの自分だっ
て彼らと変わりないな、と思えば、不潔に対する嫌悪感は当然自分自身にだって向かう。
 意識することも少ない貧富の差や、身分の違いを感じたことすらない世界で育った寿には、現
在のこの状況を実感するには、あらかじめ成形されていなければならない根本的な価値観がない
のかもしれなかった。
 それは多分、いいことなのだと思う。
(そうだろ……)
 だって、他人を見下したりしなくてすむんだから。

 ――でも、それだけじゃ、いけないのかもしれない。

 まるで、一人で他人面してるみたいだ。
「…………」
 寿はアッシュを見る。
 伸びやかな、逞しい体躯。褐色の官能的な肌は張りと艶があって上等のなめし革のようで、麦
のような明るい金髪がよく映える。ギリシャ彫刻のように彫りが深く整った顔と、覇気を湛える
きれいな琥珀の眸。挙措は粗暴だったけれど、野生の肉食動物のように音もなくしなやかで魅力
的に見えた。
 誰が見ても、文句のつけどころのない、立派な男だ。青年と呼ぶには貫禄があるし、皮肉げだ
が頬に浮かぶ笑みは鷹揚を含んでいて、きっと女性によくもてるだろうと思う。
 カリスマさえ感じさせるアッシュは――けれど、奴隷なのだ。
 身にまとう服は奴隷のボロ切れのような粗末なものだし、靴もない。手は長年の肉体労働で硬
くなってしまっているし、見えるところにも見えないところにも傷がある。寝床はいまにも朽ち
そうな藁を敷いただけの地面だし、食事も残飯のようなのを日に一度。
 奴隷に相応しい人間なんていないだろう。
 でも、アッシュに奴隷なんて似合わない。
(……似合わなくても、奴隷なんだ)
 寿はその事実を、いまはじめて認識したような気持ちだった。
 アッシュは、寿の世界とこの国とを比較している。でも、それで何をどう思っているのかは、
分からない。もしかしたら、寿には永遠に理解できないかもしれなかった。
(訊いてもアッシュは……答えてくれないかもしれないな)
 そんな気がした。
 煮詰めたようなとろみのある飴色の眸と、真っ直ぐ視線が合う。
 ――気分屋で軽薄に見えるその奥に、この国の制度を認めず、命懸けで逆らおうとするほどの
熱情がある。烈しく、寿が怯えるほどの、激情が。
 寿はそれに、ついて行く。
(……ああ、そっか)
 レジスタンスに仲間入りしたということは、そういうことだった。だが寿自身には、この国の
政府や法律――役人や王族、貴族に逆らう、抵抗したいという明確な意志はまだない。
 漠然と不安に感じていたのは、ただ流されている現状と、己の立ち位置の不安定さだったのだ。
(けど、その不安をアッシュに言うのは卑怯だ……)
 多分、と寿は思う。
 おそらく、アッシュは寿がレジスタンスを抜けたいと言い出しても止めないに違いない。文句
は何一つとして言わないだろう。
 アッシュが寿を庇い、保護し、こうして良くしてくれるのは大部分が厚意なのだと思う。それ
はアッシュが『そうしたいから』してくれただけで、寿に対して何か見返りを求めているわけで
はない。恩を寿に強制しているわけでもない。
 ――自由と責任、選択と自主性。
 寿は浅く息をつく。
(……おれが、選ぶんだ)
 選ばなければならない。これからどうするか、何をするか。
 可能性は幾つもある。
 一人で逃げ出したっていいのだ。元の世界に戻るために、できるだけ危険なことは避けて、な
んとか手段を探って。
 ――でも。
 そこで寿の頭に浮かんだのは、真っ黒な夜空のような瞳をした子供の顔だ。
(サーシャ……)
 あの子はどうなるだろう。寿がいなくても一人でやっていけるかもしれない。だが、あんなに
小さいのだ。懐いてくれて、見ず知らずの寿にこの世界ではじめて親切にしてくれて。
 見捨てていくことになるのだろうか――なるんだろう。
 他人の心配をしている余裕なんてないし、そんな悠長な状況じゃないのだと思う。なにせ、寿
は『異世界』に迷い込んでしまったのだから。
 もっと必死で還る方法を探さなければいけないに違いない。
 なのに、心に浮かぶのは――、
(捨てていくなんてできない)
 でも、還りたいんだ。
「アッシュ……」
 寿はようやく声を押し出した。
 微かに声は擦れたし、掴んだ胸は何故だかひどく詰まった。
「なんだよ」
「………………」
 何か言おうとして、何か言わなければいけない気がして、結局口に出せたのは、
「……なんでもない」
 寿は疲れたように俯いた。
 ふぅん、とアッシュは欠伸をして、
「お前、けっこう面倒い性格してんな」
「……どういう意味」
 アッシュは嘲笑う。
「根暗」
「……うっさい」
 その単語は初めて聞いたものだったが、どうせ良い意味ではないのだろう。後でセサルにちゃ
んと意味を訊こうと、発音を記憶に刻んでおく。
「はん、ま、せいぜい悩め」
 アッシュは前触れもなく立ち上がり、不満げに彼を見上げる寿を見下ろした。
「ただ、辛気くせぇ面はやめとけ」
「? なんで?」
 に、唇が吊りあがって、美しい鋭角を描く顎が小屋の扉を指した。
「客だぜ。――それも、別嬪さんのな」
……て、だれ?
next
<蛇足>
異世界トリップで得なのは、『異世界』なのに主人公が日本での常用カタカナ・英語を使えることだよね。
というわけで、最初のうちは『異世界感』を出そうと頑張ってたので遠慮してたけど、そろそろそろよかろ
うと思って……。
なんて便利な……プライベート、カリスマ、レジスタンス……前と後ろはともかく、カリスマは日本語にな
おすの難しい印象。こういうのってピンとくる日本語訳ないよね。