アッシュに促された先で、ノックもなしに素っ気なくドアが開いた。 「あ……」 寿は目を瞬く。 入ってきたのは、役人に乱暴をされていた――あの少女だった。 「君……」 思わず話しかけようとした寿を無視するかたちで、少女はアッシュへ無表情な顔を向ける。 「けがはどうなの」 アッシュは面白そうな顔で肩を竦めた。 「本人は動けるって言ってるけど?」 少女はその返答に眉を寄せた。随分と大人びた、ませた仕草に寿はぽかんとしてしまう。アッ シュは役に立たないと見切ったのか、彼女は視線を寿に移した。 「どうなの?」 「え、あ、うん……だいぶよくなったよ」 「そう」 頷くものの、少女の表情が和らぐ気配はない。 寿は困惑してアッシュを仰ぎ見た。が、彼に寿を救う気はないらしい。 「じゃあ、俺は行くわ」 「え、ちょ、ま……っ」 慌てて呼び止めようとする寿に、アッシュは口だけを「しっかりな」と動かして、少女の横を すり抜けて行ってしまった。 (ほ…ほんとに出て行っちゃったよ) そっと彼女を窺えば、何を考えているのか感情の無い顔でじっと寿を見据えている。寿は思わ ずたじろいだ。 なんだか、すごく居心地が悪い。 威圧感があるというか、迫力があるというか。 ――それは多分、少女の目のせいだ。 (すごい、青) 青というよりは、藍色だろう。深みのある、鯨が静かに潜っていく澄んだ深海のような――美 しい。 そんな綺麗で大きな瞳が、真っ直ぐに自分に向いているだけでも緊張しそうなものなのに、さ らにその目には感情らしい感情が浮かんでいないから、妙な迫力を感じてしまうのだろう。 寿は困りきって、とりあえず笑いかけてみた。 「あの、こっち座らない?」 「なぜ?」 そこで理由を訊かれるとは思わなかった。寿はしどろもどろで答える。 「じゃあ……このまま立っとく?」 「……」 少女は少し考え込んだようだった。 寿がなんとなくどきどきしながら待っていると、 「……すわるわ」 「うん」 寿はほっと胸を撫で下ろした。 その横に、彼女はちょこんと座り込む。そうすると、長い髪は床に垂れてついてしまった。 「髪、長いね」 「……うっとうしいわ」 「そうなの? 綺麗なのに」 「――」 少女はぱちり、と音がしそうなほど長い睫を瞬かせて、寿を見上げた。初めての表情の変化に、 寿は微笑んだ。 「綺麗だよ。ちょっと泥でよごれてるけど、でも細くて長くて……陽にすかしたら、きっと金色 に光るね」 汚れて、痛んでいるに違いないけれど、その想像は寿を楽しくさせた。 かぁ、と彼女は頬をうっすらと染めた。 俯いて、言い訳するように口を開く。 「……アビーがのばせってうるさくて、切らせてくれないの」 「アビー?」 「あたしのお母さんみたいなひと」 「へぇ」 ……ということは、この少女に母親はいないのだろうか。 密かに首を捻った寿の袖を、くいと小さな手が引っ張った。 「ねぇ」 「うん?」 「あなたのしゃべりかた、変だわ」 「え……あ、そう?」 細い頤(おとがい)がこっくりと頷く。 寿は眉を下げて苦笑した。 「習いはじめたばっかりだからかな」 実際、この世界の――国の言葉を使いはじめて、三週間余りしか経っていないのだ。それでこ こまで上達したのだから、驚異的な早さだと思うのだけど。 寿に、ここの言葉は聞き覚えすらなかった。英語とも、日本語とも違うのだ。ただ、唯一幸運 だったのは、文法が日本語に似ていたことだ。勿論、違うところも多々あるが、多少なりとも親 しみが持てた分、修得は早かった。必死だったということもあるけれど。 難しい言い回しはできないが、とりあえずつっかえずに喋れるようにはなったので、いまはと にかく単語を詰め込んでいる最中だ。語彙さえ増やしておけば、あとはなんとかなるだろう、と いうのがセサルの言だったので。寿が暗記を得意としていたのも助けとなったのだろう。 ――ただ、発音の微妙な違和感はいかんともしがたかった。 少女は可愛らしい仕草で首を傾げた。 「前はしゃべれなかったの?」 「うん」 「この国の人じゃないのね」 「……うん」 正確には、この世界の人ですらないのだが。 寿は苦笑するしかない。 そんな寿を不思議そうに見ていた少女は、やがて手足に巻かれた包帯に目を落とした。 「……うそつき」 「へ?」 「けが。……なおってないじゃない」 む、と藍色の瞳がしかめられたので、寿は慌てて首を振った。 「これは、あのときの怪我じゃないんだ。前からあった怪我」 「前からなら、なんでなおっていないのよ」 「えっと、治る前にまた同じ怪我をしたから、かな」 ふん、と小さくとんがった鼻が馬鹿にしたような息を吐く。 「がくしゅうのうりょくがないのね」 「……えー…………」 難しい言葉を知ってるなぁ、と褒めるべきか、貶されて怒るべきか。返す言葉に窮して、寿は 視線を泳がせた。 「……あのとき」 ふいに、ぽつりと呟きが零れた。 寿は彼女に目を戻す。 海の底みたいな瞳が、寿を見上げていた。 「どうしてあのとき、あたしを助けようとしたの?」 「……どうしてって…………」 寿は弱ったように、視線を落とした。膝を引き寄せて、抱える。 「多分、腹が立ったから」 なんだか苛々していて、そんなところに出くわしてしまったから、つい衝動的に飛び出してし まっただけなのだ。助けよう、という思いは確かにあっただろうけれど、あのときは頭に血がの ぼってしまっていて何も考えていなかった。 ――今なら、あれがどんなに愚かな行為だったのかが、よく分かる。 たまたまアッシュが出張ってくれなかったら、自分は鞭打たれて酷ければ死んでいたし、この 少女だって連れて行かれていたに違いない。 寿は自嘲するように唇を歪めた。 「……馬鹿だなぁ」 何もできなかったこと。あのときも、その前も、――いまも。 「……なんだかあなた、思ってたのとちがう」 「……思ってたの?」 「そうよ。もっと、バカなのかと思ってたけど……ちがったわね」 「え…えぇ?」 いまのは褒められたのだろうか。 若干腑に落ちないまでも、寿はとりあえず少女へ笑いかけた。 「ありがとう」 「……あたしも。あのとき来てくれて、たすかったわ」 「うん」 少女も口元を緩めて――そのときはじめて、寿は彼女が美しいことに気がついた。 前髪まで長く顔の大半を覆っているけれど、薄汚れた頬はなめらかな線を描き、小さい唇は形 よく、つんと尖った鼻が生意気そうで小気味よい。長く、扇のような睫は髪の色よりも薄く、瞬 くと藍の瞳は金粉を纏ったように輝いた。 (び……美少女……!) とはいえ、十に満たないだろう幼さは、寿に異性に対するときめきよりも、高価なビスクドー ルを前にしたときのような、芸術性への感動を覚えさせた。 彼女は呆気にとられる寿をよそに、小鹿のような仕草で立ち上がる。 「あたし、スー」 寿は一拍遅れて、それが名前だということに気付く。 「おれは、寿」 「……コトブキ?」 いかにも発音し辛そうに口にしてからスーは、 「変な名前」 でも気に入ったわ、と高飛車に微笑んだ。 そうかな、と寿も笑みを返す。 「これからよろしく、スー」 「よろしく、コトブキ」 |