半ばまろびながら走り出た寿に驚いたのか、馬の足取りが乱れる。
『……!』
 そのとき初めて、寿は御者台に人がいたことに気付いた。フードを目深にかぶった男――だろ
う、マントの上からでもがっしりとした体つきだと分かった――が何事か荒く口にして、手綱を
引き絞る。
「っわ……!」
 馬車は寿の目の前を急な動きで横切って、しばらくして停まった。
(すご……)
 寿は息を呑む。馬を間近で見たのは初めてだ。眼前を通り過ぎた馬は、テレビを見て想像して
いたものより、ずっと大きい。見上げなければ顔が見えないし、鞍を乗せる背はぐんと高く、手
など届きそうにない。騎手の人たちはどうやってそこに登るのだろうと思うほどだ。逞しい太も
もには筋が浮き、寿など容易く踏み潰されてしまうだろう。
 こんなときだというのに、寿は初めて目にした動物の存在の大きさに感動してしまっていた。
 そのせいで、失念していたのだ。――さきほど、男が口走った言葉が寿の知る言語ではないこ
とを。
『……、……!!』
「ひっ……」
 突然、怒気を孕んだ怒鳴り声を浴びせかけられて、寿はびくりと身を竦めた。
「え、え?」
 慌てて視線を巡らせてみれば、馬車から男が降りてくるところだった。フードを引き降ろした
顔に、寿は目を瞠った。
(アフリカ人とか、アラブ人とか……?)
 寿のイメージでいえば、そういう血がまじった顔のつくりをしていた。日本人ではありえない。
浅黒い肌と彫りの深い顔立ち。硬そうな髪とヒゲは日本人のそれよりも黒い。髪は短く刈り込ん
でいるものの、ヒゲの方は伸びっぱなしだった。口から覗く黄ばんだ歯とあいまって、非常に野
蛮に見える。
「あ、あの……っ」
 とりあえず話しかけてみるものの、寿は早くも彼の前に走り出たことを後悔しはじめていた。
(もしかして、危ない人なんじゃ……)
 そう思ってしまうほどに、男は寿が見たことのない種類の人間だった。そもそも寿のいた環境
では誰かがこんなふうに『ぶちキレて』怒鳴るような人はいなかったし、野蛮だとか危険だとか
感じるような雰囲気の人間もいなかったからだ。
『……! …………ッ!!』
「ご、ごめんなさ……っ」
 寿は思わず一歩後ずさった。
(どうしようっ、なんて言ってるのか全然わかんない……!)
 男の服装も、寿の見たことないものだった。いや、テレビや写真でならあるかもしれない。砂
などで浅く汚れたマント、その下は長袖の厚手のシャツのようだったが、しかしズボンではなく、
足首までの長い布を腰に巻きつけているようだった。
「……っ!?」
 寿は一瞬呼吸を止めた。男のマントの下で、何かがぎらりと光ったのだ。
 銀色の、歪曲した幅広の――、
(あれって……剣!?)
 驚きに顔を引き攣らせて茫然とした寿は、当然ながら隙だらけだった。
『……!?』
「あぅ……っ」
 浅黒い大きな手が伸びてきたのだと意識する暇もなく、胸倉を掴まれて引き寄せられた。ぐっ
と男の顔が近くなる。
「う……っ」
 思わず寿は顔をしかめる。
 臭い。
 何の臭いだろう。口臭も強いが、それより男に染み付いた体臭の方が耐えがたかった。汗と、
男独特のにおいと、それから何か知らない――あえて例えてみるならば、家畜小屋がこんな臭い
かもしれない。それも、手入れのしていない動物が寄せ集められたような小屋だ。汗と、血と、
糞尿の入り混じった、生臭く不健康な臭い。
(だめだ……っ)
 寿は耐え切れず、手で鼻と口を押さえて顔を背けた。途端、
『……っ、…………!』
「ぅう……っ」
 至近距離で怒号が響く。耳に男の唾が飛んできて、寿は恐怖と嫌悪感で泣きそうになった。
(なんだこの人……!)
 すると、ふと男の怒気が薄らいだ。寿の気弱な反応に気が緩んだのだろうか。
『――………………、……?』
「……え?」
 何か話しかけられている、質問されているのは、雰囲気で分かった。寿はおそるおそる片目を
開けて顔を背けたまま男の顔色を窺ってみる。
『…………』
「な、なに……?」
 男は、寿をじろじろと眺め回していた。手足、胴、それから顔。髪を掴まれて悲鳴をあげたが、
すぐに放される。
「な、なんだよ……!?」
 寿は、言いようのない不安に肩をわななかせた。
 男の視線はお世辞にもいいものではなかったからだ。好奇心と、不審と、それから値踏みする
ような下卑た目つき。
「や、やだ……」
 馬車を見つけたときは、天のたすけだと思った。人に会ったら、事情を話して色んなことを聞
けたらいいと思っていた。このわけの分からない場所で人間に会えたなら、そこですべて終われ
ると思っていたのに。
「やだ……放せよっ」
 男から逃れようと、寿は強引に体を捻り――、
「……え?」

 なんだ、あれ。
 
 馬車の後ろ、赤土を巻き上げた風がきっちりと閉じていた幌(ほろ)をひらりと揺らした。
 布と布の間から垣間見えたのは、
(にん、げん……?)
 隙間なく押し詰めるように、粗末な服を着た人たちが入っていた。一様に暗い顔をして生気な
く、手には手錠のような、けれどそんなものよりもっと太く無骨な枷のようなものをはめられて。
 見たことはない。
 知識でしか知らない。
 けれど、寿の頭に咄嗟に浮かんだ単語がある。
『奴隷』
 寿は体を震わせた。
(う、そ……だろ?)
 罪人ではない。
 あれは奴隷だ。
 寿の本能が確信を持って告げる。
「……じゃあ、」
 この人は。いま、寿を捕まえているこの男は――――、
「ぁっ……!」
 寿は反射的にぐっと男とは反対側へ踏ん張った。
(逃げろ!)
 うまく男のバランスを崩せた寿は、そのまま渾身の思いで腕を振り払う。男の短い爪が寿の柔
な肌を引っ掻いた。
「つ……!」
 けれど、構っていられない。
 ――逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ!
『……!!』
 すぐ後ろで男が怒鳴った。追いかけてくる気配に、寿は肌を粟立たせた。
 心臓がばくばくと酷いリズムで脈打っている。苦しい。激しい。恐怖と緊張で張り裂けそうだ。
「はっ……!」
 荒い呼吸を繰り返し、挫けそうな足に力を込める。肺が痛い。必死で吸い込む空気が熱い。埃
と土煙が目に入る。酸素が足りない。苦しかった。
(やだ……)
 じわり、寿の眦に涙が滲んだ。
 ――なんだ、ここは。
 男が追ってくる。捕まったら終わりだ。あの馬車の中の人たちのように、自分も奴隷にされて
しまう。
 ――こんなの、知らない。
「……ひっ」
 幾らも逃げないうちに、寿の手を男の指が掠めた。
 ――学校に、いたはずなのに。
 振り払って足を前に進める。
 ――知らない、こんなところ。
 けれど、寿は非力だった。
『…………!!』
「いやだっ!」
 今度こそ、男の手が寿の腕を捕らえた。肩が抜けそうなほど強い力で引っ張られて、悲鳴をあ
げる。
「やだ、やだやだやだっ、放せ!!」
 寿の人生ではなかったくらい、本気で暴れまわる。伸びてくる男の腕を引っ掻き、手に噛み付
き、指を千切ろうとして、足をばたつかせてもがいた。
『っ……、…………!』
 けれど、拘束は緩まない。
 反対に両腕をまとめて後ろに回されて、寿は蒼褪めた。男が懐から荒縄を取り出したのが見え
た。
「や、だ……放せよ、放せぇえ!!」
 寿は叫んだ。喉が裂けそうなほど。
 現実は、寿の望むものとは真逆へと進んでいく。嘘だと言ってほしかった。夢だと誰かに起こ
してほしい。あちこちが痛かった。どこもかしこも苦しくて、怖くて。なぜこんなことになった
のか。だって、寿は日本の学校に通う、普通の高校生のはずなのに。
 拘束を終えた男が、寿を引きずっていく。奴隷の詰まった馬車へ乗せられるのだ。
 ――ここは、
 後ろ手に手首を縛り上げる縄が擦れて、血が滲んだ。痛い。
 ――ここは、どこだ。
「……っ」
 暴れる寿が首を仰け反らせた。青い空が目に映る。ぎらぎらと照りつける太陽が、無情だった。
 たまらず、慟哭が零れた。
「こんなのっ、知らない! おれはっ、知らない……!!」

ここはどこなんだ。
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