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 寿が労働に復帰したときには、鞭打たれたあの日からゆうに三週間、この世界に迷い込んでか
ら一ヶ月ほどが経とうとしていた。
 久々の運動、というには過酷な労働は回復した肉体をあっという間に傷つけ、疲弊させていく。
が、文句を言ってもどうにもならないことは身に染みて知っているので、寿は鍬を握る手に力を
込めた。
 壁を均す作業からは開放されたが、今度は巨大な墓穴の外周を綺麗に整備する班に割り振られ
たのだ。アッシュ、というよりセサルやファビオが取り計らってくれたこの作業は、以前よりも
確かに負担が少ない。
(……と思う)
 は、と寿は荒く上がる息を整えようと努力する。
 あまりにも寿に肉体労働が向いていないと思ったのか、幾らもせずに死ぬとでも思われたのか。
いずれにしろ、彼らの計らいはありがたかった。
 サーシャも一緒だ。
 いまは、離れた場所で作業をすすめているけれど。
(それにしても、農家の人たちって、大変なんだ……)
 尊敬する。
 おそらく、日本では平鍬と呼ばれるものだろう。それで、おうとつの激しい地面を掘り、或い
は均し、きれいにしていく。柄は木だが、刃部分は鉄製なのでそれなりに重い。加えて、掘り返
す端からごろごろと石やら岩やらが出てくるので、一向に捗らない。
(力仕事ばっか……)
 当たり前だが。
 寿は内心で溜め息を吐いた。
 掌がじくじくと痛む。また肉刺が潰れたのだ。皮も剥げ、どこでつけたのかいつの間にか切り
傷もついていた。体勢と、力を込めるせいで腰が痛く、背も軋む。足はすでに痙攣でも起こした
ように震えていた。
(……まじで帰りたい)
 正直、泣きたいくらいにそう思う。
 温かい三度のご飯、寝心地の良いベッド、両親、雨風の凌げる家、退屈な授業、友人と学校、
やりかけのゲーム、読みたかったマンガと本、今度出る新譜、
 ――何も痛いことのない世界。
 こうして思い返してみて、どんなに恵まれていたのかを知る。そのときは、それが普通だった
し、知らないままならそれでも別に構わないと思う。自分たちが、平和な世界で幸せな環境にい
ることに罪悪感を感じる必要なんてない。だってそれは偶然で、めぐり合わせで、自分が責任を
もたなければならないことではなかったから。
 でも、こうなって初めて、あのとき何か他の――こういっては語弊があるけれど、自分たちよ
り大変な国の人たちに分けてあげられることがあったんじゃないかとも、思うのだ。
(こういう考えって、傲慢っていうのかな)
 だって、世界中の人たちが、自分と同じように幸せであればいい。
 ――漠然とだけど、そう願う気持ちが寿のなかにあることは、事実だった。
(……まぁ、)
 いま現在、寿自身が幸せといえる環境にいないのだけど。
 遠くで、カ――ン、と金属質な硬音が響いた。午後を知らせる鐘の音だ。といっても、奴隷た
ちに知らせるためのものではなく、役人のためのものだ。
 ただ、奴隷も昼になれば水が飲める。運が良ければ。
 今日はどうだろう。
 監督、というか見張りの交代で引き上げていく役人たちを見送って、奴隷たちがぱらぱらと労
働の手を休めていく。次がくるまでに動き出さなければならないが、束の間の休息の時間だった。
 寿も鍬を地面に下ろし、腰に手をあてて背を逸らす。
「う……」
 固まった体の筋肉は、それだけで痛む。肩を回せば、ごきごきと鈍い音がした。
(サーシャは……)
 見回した視界の遠くで、サーシャも同じように鍬を放り出している。寿よりは元気なようだが、
髪で半分以上隠れている顔には疲労の色があった。
 声をかけたいが、サーシャのところに行くまでの時間はないだろう。
 ――そのとき。
 周囲の奴隷が慌てて動き出した。
(え?)
 交代の役人が来るにはまだ早いはずだ。
 寿も慌てて鍬に手を伸ばしながら、首を巡らせ――体を強張らせた。
(あいつ……!)
 何を考えているのか醜悪な表情を浮かべながらこちらに歩いてくる浅葱色のターバンを巻いた
役人は、三週間前、寿を鞭打った男だった。
 寿は息を飲む。
 あの男が、ここの監督役なのか。それとも、何か別の目的が――?
(サーシャ)
 はっと寿はサーシャへ視線を向けた。サーシャは遠く、こちらへ歩いてくる役人が誰かまでは
気付いていないのか、俯いて作業の続きをしている。
 何かあったとき、彼が騒ぎに巻き込まれることはなさそうだと、寿は安堵した。
(……でも、いったい何の用で…………)
 と、密かに男を窺おうとしたとき、目が合った。
 ぞくん、と寿の背に、小さく悪寒が走る。
 ――狡猾そうな目。
 尊大なくせに、妙に卑屈そうな光を湛えた眼光がいやらしく寿を見据えている。
(お、れ……?)
 間違いない。
 寿は確信した。
 あの男は、寿に用があるのだ。
(冗談だろ……!)
 ろくでもないに決まっている。
 寿は咄嗟に周囲を見渡した。多分、無意識に助けを求めて。
 ――だが、そんなものがあるはずもなく。
「おい、お前!」
 寿は思わず眉根を寄せる。居丈高に『お前』呼ばわりされる謂れはないし、不快だった。
 しかし極力、寿は不満を押し隠す。その中に、恐怖も含まれていたかもしれない。すでに癒え
たはずの鞭打たれた肩や背が、熱を帯びた気がした。
(……忘れてない)
 あのときの痛みも、熱も、屈辱も、恐怖も、何もかも。
「聞こえているのか!」
 目の前に、立たれた。
 寿はさっと俯き、顔を隠す。
 ――憎んでいるか?
 憎んでいる。
 恨んでいる。
 そう、即答できた。
 寿は、間違いなくこの男が嫌いだった。
 これまで、そこまで強烈に誰か他人に対して負の感情を抱いたことなどなかったけれど、いま
初めて、寿は憎しみを覚えていた。
 この男は、許せない。
 許したくなかった。

 ――けれどいまは、隠せ。

 すう、と寿は肺に空気を満たす。
「…………はい」
 小さな声で、返事を返した。
 隠せ。
 そして、賢く立ち回れ。
 自分と、自分が大切だと思う皆のために。
 男は寿の上から下までをじろじろと値踏みするように眺めてから、ふんと鼻を鳴らした。
「ついて来い」
 どこへ。
 そう思ったが、寿は従順に――内心では不承不承ではあったが――頷いた。
 踵を返した男の後を追って、寿は一歩踏み出した。
 視界の端で、サーシャがこちらに気付いて駆け寄ってこようか迷っている。
(ダメだ……)
 寿は微かに首を振って、サーシャを制止した。
 細い足が戸惑い、とどまるのを確認して、寿は再び俯き加減で前を向く。
 掘り返した泥が湿気を含んでぐずぐずと素足を汚す。圧し掛かってくる不安を無視するように、
寿は強く地面を踏みしめた。
どこへ行こうっていうんだ
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