◇   ◇   ◇ 


 セサルは驚きに上ずる声を押さえた。
「ギード、それは……本当なんですか?」
「はい、間違いないです」
 セサルに報告を持ってきた同志の男はいっそう声を低めた。
「俺もさっきヘラルドに聞いたんですけど、あの坊主を連れてったの、アダンらしいんですよ」
「……いつ」
「ついさっきです」
 ギードが言うからには、本当につい先程のことなのだろう。昼の交代で役人たちの監視が少な
いとはいえ、こうも機敏に動けるとは……それとも、単に役人が無能なだけなのか。――いや、
いまはそれどころではない。
「……しかし、なぜコトブキが?」
 ギードは黙って肩を竦めた。
 セサルも渋面をつくる。
 ――言わずとも、知れている。どうせアダンが仕組んだことだろう。
「酷吏が……!」
 セサルは吐き捨てた。
 以前の一件を根にもってのことだろうが、いかにも非力そうな子供を選ぶところが、下劣だっ
た。
 どうします、とギーズが険しい顔で言った。
 向こうの方で、奴隷たちがのろのろと作業を始めている。役人が戻ってきたのだ。猶予はない。
「セサル」
 それまで隣で黙って話を聞いていたアッシュが口を開いた。低い声音は底冷えがするように獰
猛で、しかし同時にどこか嘲りを含んで楽しそうでもある。
 はい、とセサルとギーズは彼の指示を待った。
「どのみち、いまできることなんかねぇ。それは分かるな」
「ええ」
 ですが、とギーズが口を歪める。そうだ、このまま放っておけば、コトブキは死ぬだろう。遠
からず、確実に。
 分かっている、とアッシュが軽く顎を逸らす。尊大に。
 猛禽に似た琥珀色の瞳が、物騒に眇められた。
「せっかく助けたんだ、無駄に殺されるのは気にくわねぇ。――聞け」
 ふ、とアッシュは一息。
「フィデルに連絡を取れ」
 ギーズが息を呑んだ。
「……また反対する奴らが出ますよ」
「それは、お前もか?」
 アッシュの返答はにべもない。
 ギーズは口ごもった。
「……ギーズ、この状況では彼しか動ける者はいないでしょう」
「……どうなっても知りませんよ」
 取り成したセサルに、彼は苦々しく眉根を寄せる。
 セサルは吐息をつくしかない。
「彼も、同志です」
「どうでしょうね」
 ギーズは素っ気なく言って、踵を返した。
 セサルは二度、溜め息を落とす。
 不満はあっても、彼ならしっかり仕事をこなしてくれるだろう。だが、問題は、
「……アッシュ」
「てめぇもあいつが信用ならねぇか」
 アッシュの薄い唇に冷然と嘲笑が浮かぶ。
 セサルは頭を振った。
「いえ、彼は私たちの信頼に足る人だと思いますよ」
「でも?」
「一部では、そうでないでしょう」
「一部? ほとんどだろ」
 だが、とふいにアッシュは嘲弄を消した。
「……どうしても、あれの協力は必要だ」
 セサルも生真面目な顔で同意する。
「ええ、承知しています」
 ふとセサルの表情が翳った。
「なんだ」
「いえ……コトブキは大丈夫でしょうか」
 大丈夫なわけはないのだが、そう思わずにいられなかった。
 アッシュは鼻で嗤って、足元の土くれを蹴った。
 琥珀の双眼が光る。
「手は打った。あとは、あいつ次第だ」


                ◇   ◇   ◇


 随分と、下に降りた。
 寿は穴の淵に取り付けられた縄を伝い、さらに不安定な足場を移動してなんとか墓穴の底まで
降りたのだが、目の前を歩く男は寿に指示を出しておいて、別の場所から移動したようだった。
もしかしたら、役人だけ安全に移動できる設備があるのかもしれない。
 穴の底まで降りたのは初めてだった。
 ――が、まだその下があったのだ。
(……どこまで行くんだ)
 底の端には幾つか、穴が開いていた。大人の男が三人ほど横に並んで入れる程度の大きさで、
下へ続く階段があった。
 中は入り口と同じくらいの道が掘られていて、高さもある。少なくとも寿が頭をぶつけるよう
なことはないだろう。ファビオなら、窮屈かもしれないが。
 そして、当然だが、暗い。
 所々に蝋燭が配置されているようだったが、既に消えていたり、ただでさえ小さな火の明かり
ではろくに周囲が見えやしない。
(――それに、息苦しい……?)
 寿は気付いた。
 ここは地下だ。酸素が少ないのかもしれない。
 その推測に、寿は背筋を震わせた。
(……でも、この男が平然としてるんだから、大丈夫だ)
 前を先導していく男が取り乱していないところを見ると、安全なのだろう。そう思うことにし
たが――果たして、男にとっては危険がなくとも、寿にはどうなのか。
 寿は唇を齟み締めた。
(抵抗は、無駄だ……)
 言い聞かせるように口の中で呟いたとき、ふいに目の前が開けた。
 広場のような場所だ。大きな空洞は音を反響させることなく、逆に周囲の土壁のせいですべて
吸収してしまう。
「――アダン!」
 この場において、場違いに明るい声。
 手を挙げて近づいてきた中年の男に、寿を連れてきた役人――アダンは笑みを浮かべた。
「待たせたな、ガイッカ」
「そいつが言ってた奴隷か?」
 ガイッカと呼ばれた役人が、寿に顔を向ける。地底の暗闇の中でも分かるほど、奇妙に白い肌
をした顔だった。醜男というわけではない。しかし、唇は小さいわりに厚ぼったく、眉は細い。
神経質そうなところのある男に見えた。
 男は寿をじろじろと眺め回して、いやらしい笑みを口に刻んだ。
「アダン、アンタも中々ひどいことするもんだ。まだ子供じゃないか」
 アダンは失笑する。
「子供? 奴隷だ」
 寿はかっと頭に血がのぼるのを意識した。
(こいつ……っ!)
 だが、何か行動する前に、ガイッカという男の笑い声が追従する。
「違いない。……で、こいつもらっていいのか?」
「ああ。好きに使え」
 言って、振り返ったアダンの目を見て、寿は嫌な予感に心臓を凍りつかせた。
 すれ違い様、ぼそりと愉悦を含んだ呟きを吹き込まれた。
「……この程度ですむと思うなよ」
 怨嗟でどろどろに凝った声は、それだけで皮膚が粟立つ。
 なんのことだ、と寿はとっさに振り返り――嘲りで光る男の視線を追い、短く悲鳴をあげた。 
 ぽっかりと地下に広がる穴の隅、折り重なるように何かが積みあがっている。
 一目で分かった。

 ――――死体だ。
 
嘘だろ
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