寿は戦慄した。 毎朝毎朝、途切れることなく転がる彼らは、寿が一日の作業を終えて寝床に帰るといなくなっ ている。どこへ送られるのか、知らなかった。 ――ここへ。 この、暗くじめじめと湿った、光の射さない地下へ捨てられるのか。 あんなふうに、物みたいに――まるで、ゴミみたいに積み上げられて。 「……っく」 寿は咄嗟に口を両手で押さえた。 吐きそうだ。 床に点々と置かれた蝋燭の炎が揺らぐと、重なる彼らの影も揺らぐ。"それら"は、うすぼんや りと白く浮かび上がっている。 ――裸なのだ。 服を剥ぎ取られている。 生命を失って、血の気をなくした肌は、暗闇においてなお蒼白く見えた。 中から、たおやかな細い腕が一本、突き出ていた。くったりとだらしなく項垂れた腕は、何か を手招いているようにもみえる。女性の腕だ。剥き出しの――、 (……?) なぜ、裸なのか。 服を着ていないのは――。 寿は知らず後ずさった。 口を押さえたまま、目だけで恐る恐る自分の体を見下ろす。 長袖の服、踝より上の少し小さめのズボンが視界に入り、 「……っぐ、う、ぇ!」 今度こそ、吐いた。 「はっ、はっ、はっ……!」 堪らずしゃがみこんで、吐瀉物にまみれた手を地面に擦りつける。涙がこみ上げた。 (この服……!) 寿が着ている服は、おそらく、死体から剥ぎ取ったものだ。 (うそだろ……っ) だが多分、寿の予想は正しい。 再び、喉の奥から酸っぱい胃液がせりあがってくる。 ダメだ、また吐く――そう思ったとき、 「……っが!?」 かふ、と少量の胃液と共に呼気が吐き出された。 (い、た……) 背中と腹が痛い。 何が起こったのか、と苦痛を堪えようと反射的に閉じた目をこじあけて、ようやく寿は自分が 蹴り飛ばされたことを知った。 「ああもう、汚いなぁ」 寿を蹴っただろうガイッカという男が、地面に水溜りをつくった吐瀉物とうずくまる寿とを見 比べて嘲るような笑みを浮かべた。 片頬だけが歪む微笑い方は畸形じみていて、寿はぞっと臓腑を凍りつかせる。 ――たとえばニュースで見るような、幼稚園や小学校で飼っている兎とか鶏をナイフで切り刻 むのは、もしかしたらこの男のような人間なんじゃないだろうか。 キレたら何をするか分からない、ではなく。 常に鬱屈と凶暴性を抱え、ふと思い立って欲望を実行してみるような、そんなタイプの。 「……っ」 寿は自分の想像に肌を粟立てた。 「ほら、早く立てよ」 ざっと土を蹴りかけられて、寿は顔を背ける。細かく湿った砂土が頬にあたってぱちぱちと弾 けた。 頭を振り、肩で頬を拭ってようやく、寿は目を開ける。 ガイッカは片頬にいやらしい笑みを浮かべ、腰のベルトに挟んだ鞭をこれみよがしに弄んでい る。寿が従わなければ、次はそれで打つつもりなのだ。しかも、それを望んで楽しみにしている。 「――……」 寿は震える膝に力を込め、壁に縋りながら立ち上がった。 視線は、ガイッカに据えて。 ――勇気でも反抗でもなく、多分、死体を見たくなかったから。 ふん、とガイッカはつまらなそうに鼻をならし、横柄に顎をしゃくった。 「ついてこい」 寿は頷きもせずに、彼に従う。正確にいえば、頷く気力もなかった。 (…………) 頭には、何も浮かばない。 空白だ。 疲れていた。 どこまでも続くように思える地下通路の暗闇を一歩進むごとに、じっとりと湿った土に力が吸 いとられるようだった。 衝撃から、抜けられない。 憔悴した顔で、寿はひそやかに背後を振り返った。 もう、骸の山は見えない。 だが、すぐそこにあるように思えた。 (こんな……こんな、) それ以上の言葉が出てこない。 これが、奴隷。 寿の目尻から、静かに膨れ上がった涙が頬を伝った。 一筋。 寿は戦慄く唇を引き結ぶ。嗚咽を堪えるためにか、誰か――何かを罵るのを堪えるためにか。 ただ、無性に泣けた。 (アッシュ――!!) 瞼の裏に、あの輝く金髪を思い描く。生気と覇気に満ちた、飄々とした表情。 (……アッシュ) あんたは、これに逆らおうっていうんだな。 抗うつもりなんだ。 認めたくないから? 許せないから? 嫌だから。 怖いから? 怒ってるのか。 憎んでる? 憤って? 悲しい? 悔しい? ああ、そうだな、アッシュ。嗤うしかないよ。 正直、生まれてきた意味なんかなくても、価値なんか考えなくても、生きていくことはできる。 不自由なんかない。 でも。 この生涯が、末路が、存在理由が、生まれてきたことが、生きてきた意味が、なんて――なん て、無為な。 無意味で、くだらないことか。 いっそ馬鹿馬鹿しい。 「……アッシュ」 寿は、祈るように呟いた。 その声は本当に小さくて、前をいく男にさえ聞こえないほどだったけれど、だからこそ、却っ て寿自身のなかに響いた。 滴が落ちて、波紋が広がるように。 (アッシュ――おれも、いやだよ) こんなのは、いやだ。 こわい。 悔しい。 腹が立つ。 ――でも、そんな理屈以前に、嫌だった。 寿は理解する。 セサルもファビオもアッシュも、色々な理由があるのだろう。寿には及びもつかない事情や考 えで、抵抗しようとしている。拒否しようとしている。 けど、根っこにあるのは、きっといまの寿と一緒だ。 ただ――いやだから。 単純で本能的な、純粋な感情。 理屈も理論も何もかもとっぱらって、それでなお強い、意志とは関係なく胸を熱くさせ体を動 かすそれに、寿は新たな涙を零した。 まるで、魂に命じられているみたいだ。 (いやだ……) なら、抗うしかない。 受け入れれば、諦めれば、この地底で朽ち果てる。 (そうだ、) 抵抗しなければ、生きる道はない。 (帰る、道も) ひく、と寿は嗚咽を呑み込んだ。 ――還りたい。 元の世界へ。寿の世界へ。 (だったら、おれは……ひとつしか、道はないんなら……) 戦わなければ。 |