奴隷の王



 ――馬車のなかは、酷かった。

 それ以上、言葉にしようがない。
 既に寿の乗るようなスペースなどなく、男に担がれた寿は先に乗っていた人たちの上に放り投
げるように乗せられた。体の下で、痩せこけた人間が呻く。わき腹に他人の骨と肉の感触があた
って寿は嫌悪感に悲鳴をあげた。
 身を捩って体勢を整えようにもどうにもならず、馬車はそのまま動き出した。寿は茫然とする。
「う、く……」
 すごい臭いがした。鼻に自然と皺が寄る。さっきの男の臭いはここからきていたに違いない。
それでも、この中よりはマシだったのだ。人間の体臭と糞尿の臭い。加えて、饐えたにおいが堪
らなく不衛生だった。外の熱気のせいで、むんと蒸した気温がまたいっそう不快感を煽る。
 ひうひうと寿は細く息を吸い込みながら、首を動かせる範囲で周囲を窺ってみた。
(子供もいる……)
 膝を抱え、或いは立ったまま、或いは寿のように折り重なって、色んな人間がいた。寿よりも
小さい子供や女性、男、肌の白い人、黒い人、金髪の人に黒髪や、赤い髪の人。ただ寿のように
東洋系の顔立ちの人はいなかった。彼らは俯いたり、虚ろに前を見ているだけで、まるで生気が
ない。悲嘆する気力さえない様子だ。
 他人の上では暴れられず、仕方なく他の人に話しかけようとした寿だったが、誰も返事もして
くれなかった。日本語が通じないせいだけではないだろう。当初はそれでもめげずに喚いてみた
が、やがてあまりの無反応さに寿も諦めた。
(これからどうなるんだろう……)
 半ば確信していても、簡単には認めたくなくて寿は逃避のように考えた。
 みんな、売られていくのだろうか。
 ――なんのために?
 びくん、と寿の肩が跳ねた。初めて、そのことに思い至ったのだ。
 なんのために――寿が読んだ本では奴隷の用途は様々だった。飯炊きや掃除夫ならまだいいだ
ろう。だが、坑道などの危険な肉体労働だったりしたら……いや、考えたくないことだが、単な
る労働なんかではなく臓腑や体の一部を売るためだったら?
「……っ」
 限界だった。
 胃がひきつり、中身がせりあがってくるのを自覚する前に、嘔吐していた。
「……っげぇ、っぐ、ぇ、え、」
 寿の制服や、体の下にいる人に吐瀉物がまともにかかる。けれど、彼らは抗議をする気配すら
なかった。もしかしたら、慣れているのかもしれない。吐いてみて、臭いのなかには吐瀉物のも
のもまじっているのだと寿はぼんやりと思い知った。謝る気力もなかった。
「は、は、は……っ」
 喉が痛い。胃酸で食道が焼けたのかもしれない。
「ぅっぐ……えっ、げ……」
 自分の吐き出したものの臭いのせいで、再び嘔吐感がこみあげてくる。我慢できない。寿は数
度に渡って嘔吐した。しまいには、えずくだけで胃酸しかでなくなるまで吐き続けた。
「う、うぅ……」
 苦しい。惨めだった。
(きたない……)
 生理的なものだけではない涙が、ぼたぼたと汚れた顔を滑り落ちていく。口からは涎が垂れた
まま、拭うことさえできない。
 赤い荒野は当然路面が悪いのだろう。馬車はがたがたとひどく揺れた。休みなどなく、ずっと
走り続ける。荷台のなかはあっという間に気温があがっていき、寿は耐え切れず朦朧と意識を失
った。
(かえりたい……)
 ここがどこかなんて知らないけれど、帰れるならなんでもするのに。

 再び寿が目覚めたとき、やはり馬車は走り続けていた。夢ではなかった。そのことに落胆する
も、もう泣く気力すらなくなっていた。
(……きつい)
 体は当初の痛みなど問題にならないほど、体力が奪われて重くなっている。
「う、あ……」
 ずっと後ろ手に縛られた腕や肩が痛い。背筋も変になっている気がした。
(いま、何時……)
 寿はぼんやりと視線をあげた。
 幌の隙間からのぞく外は、薄青く暗い。夜になるのか、夜が明けるのか。どれくらい気を失っ
ていたのだろう。
 ――その間、寿を捕らえた男は一度も様子見にこなかったのだろうか。
 だとしたら奴隷たちの様子も納得がいくかもしれない。彼らは寿よりも長い間、水も食事も与
えてもらっていないのだ。死なない程度には気を遣われているのかもしれなかったが、その最低
限のラインは寿が想像するより絶対的に低いに違いなかった。
 食事などとてもとれる体調ではなかったが、水はほしかった。口をすすぎたい。もう何時間前
になるのか分からないけれど、吐いた後の口内が酷い状態になっていた。口腔内は乾き舌がはり
ついて、唾液は酸っぱい味がする。
(……気持ち、悪い)
 このままだと、また吐いてしまいそうだ。
 それに、十分……一分でもいい、腕を解放して楽な姿勢で寝転びたい。
「あぅっ」
 またひとつ、馬車が大きく跳ねて揺れた。下にいる人の骨が寿のやわい腹に突き刺さる。
 ――もういやだ。
 もう嫌だった。こんなところに居たくなかった。こんなのは嫌だった。
(なんで、おれが……)
 泣くこともできず、寿が虚ろな思考で思ったとき、馬車が停まった。
「……?」
 寿は全神経を研ぎ澄ます。
(とま、った……?)
 確かに、馬車は停止していた。
 寿は束の間安堵する。
 ――けれど、なぜ停止したのか。
「……っ」
 ざわり、寿を恐怖が襲った。心臓がぎゅうと収縮する。
 馬車が停まったのは、着いたからだ。――目的地に、到着したから。
(に、逃げ……っ)
 もう全てに構っていられなかった。
『……!』
 体の下で悲鳴があがる。
 けれど、寿は必死で四肢を動かした。動かした。
 ――無駄だと、心のどこかで叫ぶ自分がいたのに。

 ごとん、

「ひっ……!」
 びくりと寿は動きを止めた。馬車が走りだしたのだ。
(……ちがった?)
 到着したわけではなかったのだろうか。
 一抹の希望を抱く。
 けれど、寿の期待もむなしく程なくして馬車は再び停車してしまった。
 今度は寿が何か行動するよりも早く、怒鳴り声とともに幌が捲り上げられる。
『……!!』
 そこで初めて、周囲の奴隷たちが反応した。俯いていた者は、顔をあげる。幾人かは怯えたよ
うに更に身を縮め、或いは狭い馬車内で奥に逃げようとする。
「な、なに……」
 戸惑いもあった。しかし、恐ろしくて体が動かない。
 幌を捲くった男は、寿を捕まえた奴とはまた別の男だった。寿を捕らえた男よりも清潔そうな
身なりをしている。頭は暗がりでも分かるほど色鮮やかな浅黄色のターバンを巻いていて、同じ
身なりをした男が他に数人いた。
 彼らは、奴隷たちを次々と馬車から引きずり降ろしていく。
「っいぁ……!」
 寿は咄嗟に奥に逃げようともがいた。
 それが、かえって目をひいてしまったのか。
『…………!』
 鋭い怒鳴り声、ついで足を遠慮なしに掴まれて寿は声もなく悲鳴をあげた。
「ぁ、ぁ…あ……っ」
 恐ろしい力で引きずられて、寿は下にいる奴隷たちの服や体に爪をたてる。
(やだ)
 ――いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ!
 寿は渾身の力で抗った。
 
 けれど、敵うはずもなかったのだ。

『……!!』
「――いやだぁあ!!」
 とうとう馬車から引きずり降ろされた寿は、ひどく乱暴な扱いで地面に投げ落とされて、意識
を失った。

 
いっそ夢だったら
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