夢を見た。
　母と、父と、友人が出てきたような気がする。
　――帰りたい。
　いますぐ彼らのもとで泣きつくことができるなら、寿にとってそれ以上の幸福はないだろう。



　目を覚ましたのは、誰かの大声だった。何かを叫んでいる。
「ん……なに……」
　ぼんやりと瞼を開く。
「う、っつ……」
　後頭部が激しく痛んで、寿は反射的に開いたばかりの目を強く瞑って丸まった。鼻をつくのは、
覚えのある臭いだ。
「あ……」
　思わず頭痛も忘れて、寿は勢いよく頭をあげた。
（――――！）
　言葉が見つからない。
　そこは、何かの建設現場のようだった。
　広い広い広い、サッカー場よりまだ広い。一面が均した土の地面のようだった。端のほうには
何に使うのか木材や大きな石材がまとめて置いてある。その、広大な土地の中心には、これもま
た大きな穴があいていた。
（掘ってる……のか？）
　長方形にかたどられた穴は、一見しただけでも想像を絶する深さがありそうだった。
　その穴に向かって、粗末な服をきた人々が怠惰な動作で近づいていく。なかには、切れ端にし
か見えないような服を着た人もいた。
「な、んだここ……」
　もう何度目にかなる言葉を茫然と口にした寿の手の平の下で、何かが擦れた。見下ろすと、藁
のようなものが敷いてある。
「……？」
　藁を編んだ――編んだといっていいのか悩む出来栄えだったが――ものの上に、寿は寝ていた
らしい。強いていうなら、ゴザに似ているだろうか。それが、寿がいる場所から四方にずらっと
無秩序に並んでいる。
　そのうえに、寿のように寝転ぶ人、のろのろと起き上がる人。
　――ざっと寿の背筋を何かが走った。
　恐怖と嫌悪感と、形容しがたい何か。
（ここ、奴隷の……!!）
　寿はようやく悟った。
　ここは、奴隷の強制労働所のようなものなのだ。あの巨大な穴は、彼らが掘ったものだ。
　――そして、寿がこれから掘らされるだろうもの。
「……っ」
　寿は慌てて起き上がった。
　全身がだるく、痛かったがいまは気にしていられない。そして自分を見下ろした寿は、息を呑
んだ。
「ふく……！」
　寿が着ていた学生服ではなかった。
　周りの奴隷と同じ、黄なりの粗い布目の粗末な服。
（着替えさせられた……!?）
　寿は愕然とする。
「あ……携帯っ、」
　体のあちこちに手を這わせ、しかし寿の求めるものは出てこなかった。服と一緒に没収された
のだろうが、信じたくなかった。何がどうなったのか分からない今では、あれだけが寿に『現実』
を示す唯一のものだったのだ。
（そんな……）
　あまりの失意に、寿は膝に顔を埋めた。
「う、く……」
　泣いてしまいそうだ。あれだけ馬車のなかで流したのに。
　丸めた自分の体が臭い。周りの臭いが移ってしまったのだろう。加えて、自分のもどした吐瀉
物の饐えた臭いが強く鼻を刺激した。
　泣きたい。
　そのとき、
「ぁぐ……!?」
　ぐっと襟首を後ろに引っ張られて、寿は悲鳴をあげた。強制的に立たされる。
「っほ……ごほ、」
　首を押さえながら咳き込めば、そこには子供が立っていた。
『…………！』
「え？」
　寿より随分年下に見えた。十歳ほどだろうか、それよりももっと下にみえたけれど栄養状態が
悪いだけかもしれない。伸びっぱなしの黒髪は顔を隠し、剥き出しになった上半身は肋骨が浮い
ている。ズボンしか身に着けておらず、靴はない。
（あ、おれも……裸足）
　気付いた寿は、なんとなく足踏みをした。裸足で地面に立つなんて、何歳ぶりのことだろう。
『…………？』
「えーっと、わかんないんだけど……」
　首を傾げた寿に、彼は身長差のせいで精一杯背を反らして顔を見上げた。ぼさぼさの髪の毛の
間から、右目だけが覗いている。
（おっきい……）
　寿は目を瞠った。
　子供の瞳は、髪と同じ真っ黒で、潤んでいた。
　見たことがある。
　戦争や被災地、貧しい土地の子供たちを映した写真のなかで。寿より遥かに恵まれていない、
厳しいという言葉なんかでは到底足りないような暮らしをしているのに、純粋で穢れのない、痛
々しい瞳だ。
　――彼らは常に、何かを訴えるようにファインダー越しに期待と戸惑いの透けて見える眼差し
を投げかけてきていた。
　ただ、寿の前に実際にいる子供は、それとは別の何かを寿に伝えようとしている。
「な、なに……？」
　寿はしゃがんで、彼と目線を合わせた。
　子供という存在が、寿の混乱を和らげたのかもしれない。このわけの分からない状況で初めて
の、好意的な接触だったことも一因だろう。
　首を傾げる寿に、子供も言葉が通じていないことがわかったのか、もどかしげに服をひっぱっ
て腕を掲げた。
「ん？」
　指をさした場所に視線をやれば、男の奴隷たちが次々と集まっていっている。
「なんだろ……あそこに行けって？」
　寿も同じ場所に、指をさす。すると、子供はぱぁっと顔を明るくした。――といっても、彼の
顔はほとんど髪で隠れていたので、雰囲気だけだが。
　寿は眉を寄せる。
「あー……ホントに行かなきゃいけないのかな」
　躊躇う寿を、これ以上待てないといったふうに子供がぐいぐいと引っ張るので、寿はしぶしぶ
と立ち上がった。
（何させられるんだろ……）
　本気で行きたくなかったが、ここでぐずぐずしていたも、きっと悪いことが起こるに違いない。
（……あれ？）
　手を引かれながら、寿はふと後ろを振り返った。
　何百とあるゴザの上には、いまだ寝たままの人がいる。何人かいたようだったけれど、彼らは
起きないでもいいのだろうか。
　ふとよぎった疑問だったが、いまの寿には構っていられる余裕がなかったので、すぐにそのこ
とを忘れてしまった。


　年下の少年に手を引かれるまま、寿は奴隷たちの後ろに並んだ。背伸びして前のほうを見てみ
ると、一人だけ違う服装をしている男がいる。
（あ、きのうの……？）
　顔は違う。
　だが、頭に巻いているターバンは同じ浅黄色をしていた。明らかに小奇麗な格好をしていて、
しかも若い。手には鞭を持っている。
（――――ムチ!?）
　全身を眺めたあとで、ややして改めて男が手にしているものの名前を思い浮かべた寿は、ぎょ
っと目を剥いた。
「は、はじめて見た……」
　いや、競馬で見たことがあったかもしれない。けれど、騎手が馬に用いるものとは違う。男の
持っているのは木製だった。よくしなりそうだが――あれで叩かれれば、そうとう痛いだろう。
『……、…………！』
　ターバンを巻いた男は、声を張り上げて何かを言っている。そうか、と寿はようやく男が奴隷
を管理している立場の人間なのだと理解した。
（役人とか……？）
　なんとなく、男の立ち姿を見てそう思った。同じ色のターバンは役職をしめす制服のようなも
のだろうか。
『…………!!』
　一際大きな声を最後に、奴隷たちがばらばらと散らばって動き出した。
「え、え……？」
　どうすればいいのだろう。
　きょろきょろと周囲を窺う寿の手を、さきほどの子供がぐいと引く。
『……』
「……つれってくれんの？」
『……！』
「えっと、ありがと……でいいのかな」
　少しだけ微笑んでみせると、子供はひとつだけ見える右目で嬉しそうに笑った。それから跳ね
るような足取りで、寿を連れて歩き出す。
　その先を見て――――寿は頬を引き攣らせた。
「……え、うそ」
　多くの男の奴隷たちが足を運んでいるところに行くようだが、場所が問題だ。
　巨大な長方形の穴――近寄ってしまえば、もはや全貌さえ見ないのだが――の縁。というか、
すでに淵だ。
（……もうこれ、崖みたいになってんだけど！）
　地面に大きな釘のようなもので縄梯子が打ち付けてある。どうやら男たちは、それをつたって
下に降りるようなのだけれど、
（む……むり！）
　くらりと寿は眩暈がしそうだった。なんといっても、下までは何十メートルあるかわからない
のだ。対岸の淵では、細い縄梯子に縋って降りる奴隷の姿がぽつぽつと見えている。
（これは無理だろ！）
　とっさに子供の手を引いて止まろうとするも遅し、ちょうど場所が空いた縄梯子のひとつに連
れてこられてしまった。
「ま、まじで？」
『？』
　思わず見下ろした子供が、きょとんとあどけなく見上げてくるのがまた、なんともいえない。
　遥か下から吹き上げてきた風が、非常に不穏な音を立てて寿の前髪を煽っていった。