残念ながら、どんなに嫌がっても寿はこの崖を降りなければならないらしい。
 ――らしい、というのも、自分たち奴隷を見張っているターバンの男が厳しい目を寿と子供の
ほうへ向けたからだ。
「うー……」
 このままだと、ぐずぐずするなとか言ってあの鞭で叩かれてしまうのだろうか。
(それはやだ……)
 確認するまでもなく、寿は自分が痛みに弱いことは自覚していた。それはもう、学校の階段か
ら転がり落ちてこんなところに連れてこられるまでに、身にしみて分かっている。
『…………』
「う、わかってるよ……」
 なにやら催促しているらしい子供へ、渋々と返事をして、寿はごくりと唾を飲み込んだ。
 土で湿って汚れている荒縄を、そっと手に取る。
「え、えっと……」
 どうすればいいのだろう。
 なにしろ、縄梯子があるといっても非常に不親切なつくりになっているので、そもそもこれを
使ってどんなふうにすれば安全に降りられるのかが分からない。
 寿はとりあえず、隣で降りようとしている奴隷たちを見習ってみることにした。
 地面の上で、穴に向かって尻を向けて四つんばいになる。
(――それから)
 体の下の縄梯子を確かめつつ、じりじりと後ろに後退していき――、
「ひ……」
 ぷらん、と片足が宙に浮いて、寿は肝を冷やした。
(……こ…これは、やっぱ無理っぽいっ)
 やはりやめよう。
 そう思って足を引き寄せて顔をあげた寿だったが、遠くのほうでどうやら動きの鈍い寿を監視
対象と決めたのか、こちらをじっと見てくるターバンの男と目が合ってしまった。
(な、なんで……)
 どちらにしろ、退路などない。
 寿はいっそ泣きそうな気持ちで、再び足を後ろに進めた。今度は、地面から浮いた足を、慎重
に縄梯子のうえに降ろしていく。
(あ、あった……!)
 しかし安心してはいられない。まだ片方残っているのだ。
 もう片方を乗せ、完全に足を梯子の上に降ろしてしまうと、寿の体は不安定にぐらぐらと揺れ
た。必死で梯子に縋りつく。
『……!』
 横から声をかけられて寿は顔をあげた。怖々と見れば、子供が寿と同じ体勢で待ってくれてい
るようだ。
「うう……いま行きます……」
 心強いような、情けないような。
(は、早いところ降りてしまおう)
 できるだけ下を見ないようにして、寿は不本意ながら梯子を一歩一歩降りていった。


 ――たすかった。
 寿は膝をついて、大きく肩で息をついた。
 縄梯子は底まで続いておらず、穴の途中で設けられている足場で終わりのようだったのだ。と
いっても、何十メートルあるのか分からない大きな穴なので、壁に設置している足場は何箇所か
に別れている。階段で二層続きで降りられるものもあれば、横一線の一箇所だけがぽっかりとな
い場合も、更に何メートルか縄梯子で降りなければ次の足場にいけない場所もあった。
(てゆーか、これ……降りたら登らないといけないんじゃないか?)
 今度は帰りのことを考えて、鬱々としてしまう。
 それに、せっかく縄梯子から解放されたというのに、足場自体がそれほど安定しているもので
はなかったのだ。シロアリがきていそうな粗末な板が適当そうに組み合わさっているだけで、踏
めば底が抜けそうではないか。骨組みも見るからにお粗末なもので、いつ崩れてもおかしくなさ
そうだった。
(すぐ死ねそう……)
 ちらりと下を横目で見て、寿は若干体温をさげた。
 そんな、冷や冷やし通しの寿はいま、子供に手を引っ張られていた。不安定な足場を気にする
ことなく、彼はひょいひょいと身軽に足を運ぶ。怖くないのだろうか。
(……というか、この子なに……?)
 寿にしてみるとすごく親切で助かっているのだが、それにしても一体なぜこんなふうに良くし
てくれるのだろうか。気絶していた寿がこの子供に何かをしてあげられたわけもないし、本で読
んだ新入りの世話役という線も消していいだろう。子供以外、寿に興味を向けてくる者はまった
くいなかったので、新顔ということ自体意識されていないのか、関わることではないのか。
『……?』
 考え込んでしまう寿を振り返って、子供が不思議そうに笑う。寿は困ってしまって、曖昧な笑
みを返すしかできなかった。
 やがて到着した場所で、寿は絶句した。もう何度目かわからない。
「うそだろ……」
 そこは作業場のようだった。掘り下げた土の壁に杭が打ってあって、そこにロープがぐるぐる
巻きになって下に垂れ下がっている。そこに、なんと人間がぶらさがっているのだ。人の腰にロ
ープの端が固定されていて、奴隷たちはそこにぶらさがる形で壁に向かって作業している。
 よく見てみると、壁のおうとつを平らに均し、削り取った土は背負った籠や腰にさげた袋につ
めているようだった。
 傍目にも装備はお粗末なものでしかなく、危険な作業に見えた。
『……』
「え?」
 寿があっけにとられていると、はい、と子供に何かを手渡された。
(ん……?)
 手の平には、荒縄のロープ。
(まさか……おれにもこれしろって……いうんじゃ)
 にっこり、子供の無邪気な笑顔が心に突き刺さるようだ。寿はひくりと顔の筋肉を痙攣させた。


だから、無理だって!
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