寿は既にロープにぶら下がっただけの時点で疲れきっていた。 「こ、こわっ……!」 子供に励まされて、どうにか足場から離れたのはいいものの、ロープにしがみつくだけで精一 杯だ。 おそるおそる歪な金属性のスコップのようなもので土をすくってはみるものの、あきらかに周 囲より作業スピードが遅い。 (……子供より遅いって、どうなんだおれ) 横目で少年を窺って、寿は密かにうなだれた。寿はここにきて初めて、自分がどんくさかった ことに気付いたような気持ちだ。嬉しくないが。 (……まあ、あれよりマシだよな) 遥か頭上を仰げば、底で掘り返した土を入れた籠を背負った奴隷たちが黙々と縄梯子を登って いる。腰につけた袋や背負った籠に徐々にたまる土が、案外重いものだといまの寿は知っていた。 それを背負って下から上まで登るなんて、寿には到底できないだろう。それも、命綱などなしで。 (――絶対死ぬっ!) 想像して、寿は蒼褪めた。 「…………」 それにしても、揺れる。寿はのろのろと作業しながら、自分を吊り下げているロープを目で辿 った。雨が降ったのか、土はとてもやわらかく湿っている。適当に打ち付けたようにしか見えな い杭なんて、すぐに抜けてしまいそうだ。 ――これから、どうなるんだろうか。 同じ動作の繰り返しに、段々と意識が思考に潜ってゆく。寿は瞼を伏せた。 ――そろそろ、認めてもいいかもしれない。 (いや、認めるべきなのかも) ここは、異世界だ。 寿のいた、地球や日本がある世界ではない。 もしかしたら地球のどこかの国に、こんな奴隷が働く場所があるかもしれないけれど、でも、 寿はここに来る前まで確かに学校にいたのだ。 同じ地球のなかを一瞬に移動したか、そうでない全く違う世界にきてしまったのか。 (……それか、タイムスリップとか) どちらにしろ、ここは寿の知る世界ではない。 ――だったら、それは既に異世界だ。 「……………………」 ふいに寿は息をとめて、ついで深々と吐き出した。 「あー…………」 異世界。 (いせかい、ねぇ……) 誰かに言ったら馬鹿かといわれそうだし、自分だって言うだろうけれど。一晩寝ても同じ状況 だったので、夢でないことは確実だ。頭がおかしくなったという説も捨てがたいけれど、頭痛以 外は以前とまったく変わりないように思える。 (まぁ――いいだろう) 異世界で。 これで、とりあえず結論は出た。 寿が読んだ本にはトリップものもそれはたくさんあった。照らし合わせてみると、概ね自分の 状況とかぶるような気もするので。 しかし、本のなかでは主人公たちはわりと優遇されていたように思うのだが。 たとえば、初っ端から言葉が通じたり、迎えがきたり、お城につれていかれたり。そもそも、 異世界にトリップしてしまう理由だって、主人公に使命があったり、救世主だったり、もともと その世界の人だったり、ちゃんとしたものだった。 はた、と寿は手を止める。 (…………おれは?) 実は、崇高な使命のために――、 「いや、ないないない。ないから!」 だったら、どうしてこんなに苦労してるんだ。 思わず叫んでしまった寿に驚いて、隣で子供が首を傾げるのに、なんでもないと手を振る。 (……いや、来た理由はいいだろう) 問題は――還れるか、どうかだ。 (どうすれば……) 寿は眉間に皺を寄せた。 考えて、考えて――けれど、やはり当然の如く答えはでない。この世界に来てしまった理由が わかれば、もしかしたら還る道もみえてくるのかもしれないが、いずれにしろいまの段階では何 も分からない。 寿は溜め息を吐いた。 結局、なにひとつ解決していない。 (……おなか、すいたな) 落ち着いて考えることができたせいで、気持ちに余裕ができたのだろう。突然すきっぱらだと いうことに気付いて、寿は困ってしまった。そういえば、昨日の朝から食事をしていない。 ここの食糧事情はどうなっているのだろう。朝ごはんもでなかったような気がするのだが、た んに寿が寝過ごしてしまっただけなのだろうか。 (……一日一食とか?) それはだめだ。耐えられない。 そもそも、寿にも食べられる料理がでるのか。 『……!』 考え込んだ寿の頭上から、子供の声が降ってきた。慌てて上を見れば、登って来いと言ってい るようだ。 「いま行く!」 とはいえ、どうやって登ればいいのだろう。 「…………」 周りを見回してみたが、やはり階段や梯子のようなものはない。寿は諦めて、降りてきたとき と同じく、縄だけを頼りに上に登り始めた。せめて足がかりになるものがあればいいのにと思い つつ、腕に力を込める。 「……っ」 壁に足をつっぱり、一歩一歩、上へ。 「き、つ……いっ」 手の平が荒縄で擦れて痛い。背負った籠が重く、手足の筋肉がぶるぶると震えた。何度もすべ り落ちそうになりながら、そのたびに歯を食いしばる。 やっと足場に辿り着いたときには、寿の息は絶え絶えだった。 (……ま、学んだ) 今度これをするときは、もっと籠に入れる土の量を少なくしよう。その分こまめに登り降りを 繰り返すことになるけれど、帰れなくなるほうが大変に違いない。 寿は子供についていって、掘り返した土を集めている場所に籠の中身を引っくり返した。 『……?』 子供が無邪気そうに寿を見上げてくる。大丈夫、とでも訊かれているのだろうか。言葉はわか らないが、表情は豊かで雄弁だった。 寿は苦笑する。 「やったことないからさ、きついけど……」 平気じゃない。 大丈夫じゃない。 できればこんなところに一秒でもいたくないけれど、でも、やらなければいけないみたいだか ら。他にどうすることもできないから。 「……まぁ、みんな頑張ってるから」 しかたない。 寿は子供の頭に手を置いて、撫でるように動かした。櫛も通していない子供の髪は絡みあって ごわごわと触り心地が悪かったが、それでも温かかった。 嬉しそうに、子供がはにかむ。 寿も笑い返しながら、でも、と心で呟いた。 ――いつまでも、ここにいる気はないけど。 |