◇   ◇   ◇


 子供の名前は、サーシャというらしい。
 言葉が通じなくとも、ジェスチャーでどうにかなるものだ。もっとも、サーシャという音自体
が単純だったため、苦労せずに済んだというところもあるのだろう。
 ――ここに連れてこられてから、三日経った。
 たった三日だ。
 それなのに、随分と密度の濃い一日のせいで、ひどくながい時間のような気がする。
 まだ殴られてはいない。寿とサーシャが働いている持ち場は中でも楽なほうらしく、監視の目
もゆるいのだと、ここ数日で理解した。でなければ、子供のサーシャより役に立てていない寿な
どとっくに罰せられているはずだ。
 食事は一度。
 朝、起こされて労働を強制され、昼に運がよければ水を一杯だけもらえるときがある。水とい
っても、明らかに土のまざった茶色いもので、おまけに微妙に変な臭いまでするが、飲まないよ
りはマシだ。――ということを、初めの一杯を拒んだ寿は学ぶこととなった。
 夕陽が沈み、周囲が見えなくなれば、労働は終了となる。暗いなかで作業するには場所が広大
すぎるし、これは寿の推察だが、松明に資材を費やしたくないからだろう。
 そのころになると、青いターバンを巻いた男たちの周囲だけが、松明で明るくなる。寿たち奴
隷は、羽虫や蛾のようにその明かりにくたびれきった体をふらふらと近づけていき、ときには殴
られ蹴られながら、食事を恵んでもらうのだ。
 昼間と同じ、一杯の泥水と、パン。数度のわりあいで、なにかの肉と野菜を適当にまぜたらし
き、べちゃべちゃの残飯のようなものがでるようだった。
(……ここにも、パンはあるんだ)
 寿の知っているものよりぱさぱさしているし固かったが、確かにそれはパンだった。
「コトブキ」
 発音しにくそうに、それでもだいぶ慣れた様子でサーシャが寿を見上げた。
「たべないの?」
「ううん、たべる」
 まだそれほど語彙が豊かなわけではないから、寿はなんとか片言で返事を返す。サーシャは嬉
しそうに笑って、手元のパンに齧りついた。
 思わず寿は笑う。もくもくと一心不乱に小さな口にパンを詰め込んでいく様子が可愛かった。
『はは、ハムスターみたいだ』
「はむ……なに?」
 なに、は寿とサーシャの間で最も多く交わされる遣り取りだった。寿も味気のないパンをでき
るだけ何回も咀嚼しながら――咀嚼の回数が多ければ多いだけ、脳が満腹感を覚える信号をだす
とどこかで聞いたため――首を傾げる。
『えーっと、ハムスター……っているのか、ここ?』
 それよりもリスの方が分かりやすいか。
『や、ネズミかな。ネズミ』
 ゆっくり発音して、寿は寝床のゴザのうえから手をのばして、地面にネズミの絵を描いた。サ
ーシャの顔が、ぱっと明るくなる。
「ねずみだ!」
 それを、寿は注意深く聴く。ここ三日で、ヒアリング能力がすごく上がった気がする。戸惑い
がちな舌を動かして真似をした。
「ね…ずみ、だ……?」
「ちがうよ、コトブキ。ねずみ、ねずみ」
 はっきりと発音するサーシャにあわせて、口を動かす。
「ね、ず、み?」
「そう!」
 笑顔のサーシャに、寿も笑顔を浮かべた。
(……なるほどね)
 あまり絵に自信があるわけではないが、ここでは日本にいたネズミの姿をする動物を、そう呼
ぶのか。
 実際は、『ネズミ』とも『マウス』とも聞こえる発音の単語ではなかったが、寿はそれを自分
の知るネズミに脳内で置き換えた。こうして、地面に絵を描き、サーシャに少しずつ物の単語や
名前を教えてもらっていた。
 ただ、サーシャは見た目通り語彙も精神も幼いので、細かい言い回しや表現で分からないこと
があっても、それをうまく説明できなようだった。そのせいもあって、寿とサーシャの会話は、
ほぼ片言になってしまう。
 物の名前や、行動を表す言葉はまだいいのだ。物の名前はそのまま覚えればいいし、行動にし
ろ「いく」「ねる」「たべる」「のむ」「ほる」「おきる」など基本に、あとはサーシャの喋る
雰囲気で「いこう」「たべたい」など、なんとなく活用のバリエーションを増やしていけている。
 一番の難関は、感情を表す単語や形容のようだった。「うれしい」「かなしい」は辛うじて表
情と、つたない説明で理解できたようだが、複雑なものになると途端に詰まってしまう。「たい
へん」と「あぶない」までは、なんとか分かったのだが。
(……それでも、みんなの話す単語がいくつか分かるようになってきたし)
 それだけで進歩だった。
 特に、青いターバンを巻いた男たちの言葉をカケラなりとも理解できるようになったのは、大
きいと思っている。
 寿は最後の一口を、唾液で飲み下した。
(――携帯)
 なくなった携帯電話は、おそらくターバンの男たちが持っているのだろう。そうでなければ、
もうどうしようもないので、そう思いたかった。どうしても、あれは取り戻したい。
 ――そのためには、男たちに近づくか、隙を窺うしかない。
 言葉が分からなければ、話にならないだろう。
『先は長いな……』
 焦ってしまう。
 寿は空を仰いだ。
 野ざらしの寝床は、それほど寒くなかった。四季があるのかさえまだ分からないが、気候が暖
かくて心底助かる。見張りの男たちが松明を手にしてはいるが、奴隷たちの転がる場所までは火
の明かりなんて届かない。あたりはすっかり闇に沈んでいた。
(……でも、あかるい)
 寿は初めて、夜空が明るいものだと知った。
 どこか藍色にもみえる黒い夜空に、満天の星が浮かぶ。銀色の屑をばらまいたようだ。そのな
かに、ひとつ、ふたつ、ひときわ赤く輝く光や、オレンジ色の星がある。
 もちろん、優しい光を射しこんでくる月もあったけれど、それより小さな星の輝きはなぜか決
して負けて霞んでしまうようなものではなかった。
(きれいだ……)
 美しい、けれど、違う世界の夜空。
 悲しいのか、悔しいのか、寿は唇を噛んでいた。
「……コトブキ」
 ふいに、寿の傍らで蹲るようにして体を丸めていたサーシャが声をあげた。
「……ん? なに、どした……?」
 視線を落として首を傾げた寿を、サーシャの真っ黒な目が真摯に貫く。
「……さびしい?」
「さ、さび……?」
 寿の知らない単語だ。
「なに?」
「さびしい? コトブキ」
 首を傾げるけれど、サーシャは同じ言葉を繰り返すばかり。
「わからない、サーシャ」
 きっと、説明しにくい言葉なのだろう。寿は苦笑した。
「コトブキ!」
 サーシャは、じれったそうに体を小さく揺すると、曖昧な笑顔を浮かべる寿にぎゅっとしがみ
ついた。
 驚いたのは、寿だ。
「どした?」
 目を丸くして、自分の腹に手を回す子供のつむじを見下ろした。
「さびしい、コトブキ」
 同じ言葉を繰り返す。
 寿には、サーシャの言っている意味がわからなかった。まったく未知の単語だった。
「……サーシャ」
 ただ、抱きついてくる子供の腕の力が、あまりにも強かったから。
 そっと背骨の浮き出る背中に手を添えて、さすってやる。何度も何度も、できるだけ優しく。
 この子供が寿に何を求めているのかは分からない。けれど、寿は彼の無邪気さを可愛いと思う
し、逞しさを尊敬している。温もりが、心強いと思う。
「……も、ねよか、サーシャ」
「うん……ねよう」
「ねよう、サーシャ」
 寿はサーシャの体に手を回したまま、粗末な藁の上に寝転んだ。奴隷のなかには、藁すら確保
できない人もいる。感謝するべきだった。
 触れ合う素肌は、寿を深い眠りへと誘ってくれた。



 二人の子供が寝入ったのを確かめて、男が一人からだを起こした。
 子供たちからは、適度な距離はなれている。近すぎず、かといって彼らの表情が見えないほど
遠くはない。
「……オレが必要かねぇ」
 男はぽつりと独りごちた。
 視線の先で寝息をたてる子供は、いたって人畜無害そうに見える。あどけない表情。やつれて
きてはいるが、予想したよりも荒んできていないのは、きっとサーシャの存在のおかげだろう。
 少年はここ三日、折れそうな手足でなんとか作業をこなしているようだった。
「用心しすぎじゃねぇのかい」
 確かに、国中からここに集められた奴隷のなかで、ひときわ毛色が違ってみえた。変わってみ
えるから、目立つ。
 ――だが、それだけだ。
 少年自身は、自分が周囲にどういうふうに見えているのか、見られているのかにさえ気が回っ
ていないようだった。
 殺せ、と言われたが……これは案外、保護しろという意図も含まれているのかもしれない。警
戒しているのは、本当なのだろうけれど。
「……読めねぇからな、あの野郎……」
 ころころと表情を変える琥珀の双眸を重い描いて、男――ファビオはげんなりと肩を落とした。
(まぁ、いま考えてもしょうがねぇ)
 ごろりと固い寝床に転がって、枕代わりに腕を組む。あの子供の監視につけてもらったおかげ
で、ここのところ楽な仕事ばかりなのだけはもうけものだった。
 明日からはまた、分からないが。
(――荒れるような気ぃすんなぁ……)
 やだやだ、と吐いた息が、心なしか楽しげだったことに気付く者はおらず、ファビオはゆっく
りと目を閉じたのだった。
 
 
               ◇   ◇   ◇

 
 
サーシャ、それどういう意味?
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