一瞬空気が凍った気がした。
 「……なんだと?」
  い、威嚇されてる。
  無表情だった皇帝の顔が、かすかに険を含んだのは気のせいじゃないと思う。
  しかし、サフィニアが怯むわけがない。皇帝よりも余程凶悪面なごろつきにさえメンチきってみせた
 王女だ。……ごろつきよりも、皇帝の方が迫力あるけど。
 「ですから」
  サフィニアの軽やかな声。
  できの悪い子供に言い聞かせるような。 
  こ、好戦的ですね、殿下。
  サラは思わず視線を泳がせた。
  もう知らなーい。
  貝になるんだ。だって何もできないし。罪はない、はず。
  サラが決心をかためている前で、サフィニアは止まる気などまったくないらしく、もう一度先程の質
 問を繰り返した。
 「なぜわたくしは、陛下の妾妃に選ばれたのでしょう。おはなしでは、陛下の後宮にはわたくしよりも
 余程美しく優秀な姫君方がおそろいとか。恥ずかしながら大した取り得もございませんし、わたくしが
 選ばれた理由が思い当たりませんの」
  殿下、だんだん口調が横柄になってますよ。
  問題なのは、言い方じゃなくて内容だけど。
  これでは「こんなところに来たくなんかなかったのに無理やり呼びやがって」と聞こえてしまう。い
 や、そう言ってるんだけど。
  言っちゃだめだろう。
  そして、皇帝は評判通り賢かった。
  サフィニアの台詞の裏まで読んだうえで、戸惑うことなくあっさりと切り返してきた。
 「ほう、そなたは我が宮で最も美しいが?」
  ムカ。
  ときたのは、サラではなくサフィニアだ。
  つまり、取り得なんか顔だけで充分だろうと。ていうか、大した取り得がないならお前は顔だけの女
 だなとか言われている。
  えええ、怖!
  この皇帝、殿下のケンカ買ったよ!
  背中だけしか見えないが、サラにはサフィニアが対敵用の鉄壁の微笑を浮かべたのが分かった。
 「まあ、陛下にお褒めいただけるような大層なものではございませんのに……後宮の姫君方に恨まれて
 しまいますわ」
  意訳。へえ、後宮って美女揃いって聞いたけど、大した女はいないのね。
 「案ずるな。そなたに良くしてやるよう、皆に言っておこう」
  意訳。せいぜい他の妾妃の前で褒め称えてやるから、苦労するがいい。
 「身にあまるご厚意ですわ、感謝いたします」
 「遠慮はいらぬ。そなたは私の大事な妃だ」
  目を眇めて獰猛に笑う皇帝と、口元をおさえて優雅に微笑するサフィニア。
  うわー……もう、演技がどうとか作戦がどうとかいってる事態じゃないんじゃないかな。
  サラはそっと目を逸らした。
  いいんだ、もう。知らないって決めたし。
  しかし、皇帝もサフィニアに負けず劣らず好戦的だ。戦争をしかけてきた国を逆に侵略したんだから
 当然なんだろうけど。
 「……えー、ご歓談のところ、申し訳ありません」
  二人のバトルに待ったをかけた勇者は、皇帝の横に控えていた文官だった。
  すらりと長身の、柔和な面立ちの美形だ。優しげな亜麻色の髪が清潔そうで、いっそ女性的に整った
 顔をさらに知的に見せているのは眼鏡のおかげに違いない。
  ていうか、眼鏡キャラ!
  キターて叫びたい。
  彼は全員に注視されるなか、にこりと微笑んだ。
   うん、見た目より面の皮は厚いようだ。
  眼鏡キャラはデフォルトで腹黒いと思うのは偏見かな。すいません。
 「ハインリヒ・アントガルドと申します。宰相補佐の任についておりますので、以後、お顔を拝見する
 機会もあるかと存じます。どうぞ、お見知りおきを」
  一礼して、隣の小卓に用意していたらしい書類をとりあげた。
 「早速仲がよろしいようで、臣下の身としましては安心いたしました。ですが、まずはこちらにお目通
 しと、署名をお願い申し上げます」
  物言いもけっこう図太い。
  ハインリヒが合図すると、さっとタキが部屋の隅、壁にかかっている巨大なタペストリーの裏から小
 ぶりな椅子と机を運んできた。さり気なくエスコートして、サフィニアを座らせる。
  皇帝には、傍らに控えていた騎士が小卓を持ってくる。
  抜かりなく、羽根ペンとインク壺まで用意されていた。
  サラからはよく見えない。書類が厚めの上等な種類の紙だというだけだが、おそらく婚姻の誓約書だ
 ろう。
  サフィニアと皇帝が無言で書面に目を通す。
 「よろしければ、ご署名を」
  いいも何も、しないわけにはいかないんだからさ。
  皇帝もサフィニアも、大人しく羽根ペンを手に取った。
 「――そなたの問いだが」
 「はい」
  殿下、「はい?」て語尾があがるの堪えたでしょう。
  にしても唐突だ。
  皇帝はサインしながら顔をあげずに、続けた。
  サフィニアも彼に倣う。
  サフィニアの問いというのは、『なぜ妾妃に選んだか』だろうか。
 「私には、世継ぎがいない」
 「ええ、存じております」
  妃が四人もいるのに、皇帝に子供はいない。まあ、十九で子持ちっていうのもどうなんだ、と思わな
 いでもないが、王族はえてして婚期が早いし。
  書き終えたのか、サフィニアが手をとめた。
  皇帝はまだだ。
  名前長いからかな。
 「それは、できなかったのではない」
  は?
 「つくらなかったからだ」
  ……えっと、それは妾妃さま方とセックスしてないって?
  ていうのは無いな。
  そういう話じゃないか。
  というのは、つまり?
 「どれに生ませても実家が煩わしくてな。どうしたものかと思っていたところだが……」
  ひゅ、とサラは小さく息をとめた。
  書き終えて、皇帝が顔をあげる。
  ――その端正な野生の獣を思い起こさせる顔は、うっすらと嗜虐的に笑んでいた。
 「小国の王女になら、子ができても干渉は少なかろう?」
 「…………」
  サフィニアは、いまどんな顔をしているだろう。
  頬が強張る。
  顔色を変えるのを、かろうじて堪えた。
  皇帝はいま、トルージアは取るに足りない小国だと。だからうるさい権力争いを避けるため、子を生
 ませるためだけに、サフィニアを選んだのだと。
  それも、子を成そうというのに――正妃ではなく。
  トルージアの王女、サフィニア・シルフ・エル・トルージアはその座に不相応な女だと、言ったのだ。
  サラはきり、と奥歯を齟んだ。
  どんな女が正妃に相応しいかなんか、サラには分からない。
  でも、サフィニアがそんなことを言われる筋合いなんかないはずだ。
 「そう――」
  静かな声に、サラははっと華奢な背中を見つめた。
  銀糸のなだれる小さな後ろ頭は、しっかりと前を向いて皇帝を見据えている。薄い背中はぴんと伸び
 ている。
 「よく分かりました」
  蒼白い、炎が見えるようだ。
  冷静なだけに、純度の高い怒りが透けてみえた。
  殿下。
  サラは無言で呼びかける。
  おっとりと不自然なくらいに余裕を孕んで、サフィニアは微笑んだようだった。
 「わたくしは、陛下が力不足なばかりに、この場に居るのですね」
  ――え?
  一瞬、サフィニアの言ったことが分からなくて頭が白くなる。
  タキが思わずといったふうにサフィニアを振り向き、ハインリヒと騎士が目を剥いてから、サラはよ
 うやく理解した。
  いままでのようにオブラートに包むことなく、真っ正面からサフィニアが皇帝にケンカを売ったこと
 を。
 「……私が力不足だと?」
  それはさすがに皇帝を刺激したのか声がぐんと低くなった。
  びり、と唐突に威圧感が増す。
  大陸一の国を統べる男のプレッシャーに、サラ足の足が竦む。
  こわい。
  今まで何度も恐ろしい目にあってきたけれど――。
 「そうではありませんか?」
  まるでサフィニアだけが違う場所にいるかのようで、恐怖など感じていないようだった。
 「つまり、陛下は帝国諸貴族の皆様を御す能力に不安がおありなのでしょう?」
  言った。
  二度も言った。
  いやまあ、そう受け取れないこともないけど!
  ちょっと挑発しすぎじゃないですか……?
  びしりと凍りついたサラ以下三人をよそに、サフィニアは颯爽と立ち上がった。エスコートし損ねた
 タキを一瞥もすることなく、皇帝一人を見て。
 「そういうことでしたら、夫を支えるのが妻の務めですもの。どこまでできるか分かりませんが、精一
 杯、力を尽くしたく存じますわ」
  ――意訳。
  しょうがないから、弱くて非力な夫に力を貸してあげなくもないわ。まあ、そうしたところで実力不
 足のあなたの足しになるかは分からないけど。
  絶句した。
  こわくて皇帝の顔が見られません。
 「では、ご用事は以上でおすみのようですし、申し訳ありませんが遠路でしたもので疲れておりますの。
 これで下がらせていただきます」
  ハインリヒが何か言いかけたようだが、サフィニアはさっと身を翻した。純白の花嫁衣裳がふうわり
 と可憐に揺れる。
  そして、タキではなくサラに手を差し延べた。
 「はい、殿下」
  ちょっとどもりそうになったけど、どうにか返事をしてそっと白い手を支える。
  こんなところに置いていかれたら堪らない。勢いよく一人で退場されなくてよかった。サラは慌てて、
 寄り添うようにしながら歩き出した。
  広いといっても、扉までの距離はたかが知れている。 
  ええと、どうやって開けてもらうんだろう。とりあえず、なんだか小さなノッカーがついていたので
 叩いてみる。分厚くて聞こえにくそうだったので思い切り力をこめたら、ちょっと思ったよりに大きく
 反響して、サラはこっそり飛び上がる。
  静かで広い場所で大きな音立てると、わけもなく申し訳なく感じるよね。
  それでもどうやら正解だったようでゆっくりと扉が開きだす。
  ちらりとサフィニアを見ると、振り返る気は皆無のようだった。
 「御機嫌よう、陛下」
  鉄壁の微笑で肩越しに言い捨てて、サフィニアは歩き出した。
  え、どこに行けばいいの。
  案内は?
  そう思わないでもなかったが、サラもとりあえず逆らわず歩き出す。
  いいや、あとで誰かに頼もう。それか、案内の人が来るまで近場で待てばいい。
  ――そのとき。
  閉まりかけた扉の隙間から、偶然皇帝の姿が目に入った。
  一瞬、ひっと喉を鳴らして硬直する。
  なぜなら皇帝の鋭い双眸はまるで、獲物をみつけた猛獣のように獰猛で愉しげな色を浮かべていた。

王道って、避けて通れないものなんですかね。by.サラ
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