百聞は一見にしかずというけれど


  コンラート・グラフ・エイデンは廊下の向こうから歩いてくる旧友に、気安い仕草で手をあげた。
 「よう、帰ったか」
  宰相補佐官、文官の最高位にもっとも近い男は亜麻色の瞳を柔和に細めた。
 「留守を任せて申し訳ありませんでした。何か、変わったことは?」
 「これといってねぇな。二、三人、斬ったくらいで」
  ハインリヒは吐息をつく。
 「口が悪いですよ。侯爵家の子息とは思えませんね」
 「だって次男だもーん」
  子供のように言い返すと、さらに呆れたように嘆息された。
 「侯爵家うんぬんの前に、本当に二十四の男でしょうかね」
  コンラートはけらけらと笑う。
 「で、ウチのはどうした」
 「タキなら団長のところに報告に行かせました」
 「陛下には?」
 「これからです」
 「じゃ、ご一緒しよう」
   コンラートは垂れた目尻を細めて笑った。
  ハインリヒは海の宝石と名高いトルージア王国へ使者として赴いており、たったいま帰還したようだ
 が、コンラートはこの日を楽しみに待っていたのだ。
  だって、あの主の息子を生む予定の王女の話には、幼馴染としても騎士としても興味があるに決まっ
 ているじゃないか。
  すぐに尋ねたいのを堪えて、ハインリヒの横について歩く。どうせいくらもせずに聞けるはずだ。
  主の執務室のドアを、ハインリヒが折り目正しく叩く。
  返事はない。
  だだ広い執務室は、通常なら――先帝まではドアを開け閉めして客を取り次ぐ者がいたが、いまはい
 ない。現皇帝が政務時に傍に他人を置くのを嫌がるからだ。
  だからハインリヒとコンラートは慣れたもので、一拍置いた後、勝手にドアを開けた。皇帝自身がそ
 れを許可していた。真昼間から刺客が来るわけもなし、なにより主が後れをとるはずがなかった。
 「陛下」
  金色の髪を揺らして、鋭い顔立ちの男がゆったりと笑みを浮かべる。
 「ハインリヒか、ご苦労だった」
 「いいえ、――ただいま帰還しました」
 「コンラートも一緒か。二人とも座れ」
 「ではお言葉に甘えまして」
  コンラートより五つも年下の男は、自分よりもよほど命令しなれて態度がでかい。だが、それが当た
 り前だ。
  なぜなら彼は物心ついたときより、コンラートの主で、皇帝なのだから。
  コンラートが勝手に運び入れた上等の長椅子に、ハインリヒと座る。向かいには執務机から腰をあげ
 たリオフが落ち着いた。
 「政務はよろしいんですか?」
  質問は黙殺された。
  どうやら休憩らしい。
  そもそもこの幼馴染は、あまり書類仕事が好きではないのだ。
  コンラートは肩を竦めて苦笑した。
 「それで?」
  リオフの言葉はいつも端的だ。
  けれどハインリヒは性格に意図を読み取って、頷いた。抱えてきた書類の束を差し出す。
 「こちらが、彼の国と王女の調査書です。我が国の困った方々の横槍含めてますので、量は多いですが
 ちゃんと読んでくださいよ」
  念を押されて、リオフが隠すことなく顔をしかめた。
  調査書を手にうつむくと輝く金髪が落ちてくる。煩わしげに、後ろで一つに束ねた髪を首を振ってお
 いやった。
  そして目を通しながら、コンラートが待ちわびていた問いを口に乗せる。
 「王女は」
 「どうだった? 超美人って噂だったろ?」
  ハインリヒはコンラートには咎めるような、リオフには生真面目な表情をそれぞれ浮かべてみせた。
 「少々拝見した程度ですが、」
 「それで?」
 「まあ、評判以上の方でしたよ。まるで妖精かと見紛うほどです。まだ幼い感はありますが、もう少し
 成長されたら女神のようなと言われるようになるでしょうね」
 「へーえ」
  コンラートは感心した。
  ハインリヒが女の容姿を褒めるなんて、そうそうあることじゃない。
  けど、興味あるのはその一点じゃない。
 「そりゃあ見るのが楽しみだな」
 「外面はどうでもいい」
  リオフがぞんざいに手を振る。
 「中身は」
  深い翡翠の目が、冷ややかに眇められた。
  ハインリヒはやんわりと苦笑する。
  あたりさわりのないその表情。
  それだけで、彼が王女のことをどう評価したのかが、知れた。
 「なーんだ」
  コンラートはあからさまに落胆する。
  それを横目に、ハインリヒはゆっくり口を開いた。
 「陛下の後宮に相応しい方とお見受けしました。私は様子見ですので、目立たぬよう使者団の後方で見
 ていただけですが……教養もおありのようですし、国民や、城の者たちにも好かれているようですね。 
 王女らしく多少高慢なところは目につきましたが、その程度は当然でしょうし」
  そして、ハインリヒは口を閉ざした。
  つまりその他は特筆すべきところはないということだ。
 「タキにも聞いてみてはいかがでしょう」
 「タキに?」
 「はい。名指しで会談を申し込まれましたから。おそらく、陛下の近衛騎士だと聞きつけたのでしょう。
 彼は女性に人気がありますからね」
 「それはお前もだろうが」
  つついたコンラートを、ハインリヒはさらりと涼しい顔で受け流す。
  どうせ、その顔で女たちの秋波を跳ね除けていたに違いない。
 「つまんねー奴」
 「結構ですよ」
  その返事も可愛くない。
  三つ年上のハインリヒは、出会った頃からそうだった。つまり、十になる前にはこの人格形成ができ
 あがっていたということだ。そりゃあ、さっさと出世するわけだ。
 「タキを呼びますか?」
  いまなら団長の部屋にいると思いますが、と申し出たハインリヒを、リオフはあっさりと断った。
 「……いや、お前がそう言うなら他に聞くべきことはない」
  コンラートとハインリヒは束の間、互いの顔を見合わせた。
  ――この、さらりと寄越される信頼。
  背きたくないと願うのは、長年の情ばかりではないだろう。リオフは常に、主君として誰よりも忠誠
 を捧ぐに相応しい。
  というのは、些か自分らしくない考えか。
 「ふうん。新しいお妃サンが面白い女なら警護にも口出そうかと思ってたんだがなぁ」
 「生憎でしたね」
  そう言うハインリヒの本音は、大人しく思惑通り枠におさまってくれる女で安心したというところだ
 ろう。切れ者以上に、食わせ物な幼馴染だ。
 「……鬼畜」
  ぼそりと思わず零したコンラートに、ハインリヒはにこりと笑む。
 「なにか?」
 「いや別に」
  コンラートは高速で否定した。
  二人のやりとりに、リオフがくつりと喉で笑う。
 「面白い女を娶るのには、俺も賛成だ。近頃退屈でたまらん」
 「平和が一番ですよ」
 「ライナードの乱を治めた策士が何を言う」
  ばさりとリオフは書類を机に投げ出した。
 「トルージア王は切れ者だな。条件はすべて飲め」
 「よろしいのですか?」
 「妃に迎える女の国だ。断る理由がない……ぎりぎりな」
 「ではそのように」
  散らばった紙束から、ハインリヒはいくつかを選び出して抜き取った。
  コンラートは幼馴染に見せる気安さで、ぎしりと長椅子を軋ませてだらしなく伸びをした。
 「あーあ、つまんねぇのー」
  毒にも薬にもならない王女。
  それが、コンラートたちの一致した見解だった。


  だというのに。
  扉が閉まりきってから、コンラートは爆笑した。
 「コンラート」
  ハインリヒが窘めてくる。
 「だってよ、あのお姫サン……」
  ダメだ。
  笑いがおさまらない。
  広い謁見の間に、コンラートの無遠慮な笑い声が響く。
 「予想と随分違うぜ、新しい妾妃様は」
 「そのようですね。驚きました」
  というか、肝を冷やしたというべきか。
  苦笑したハインリヒが、一度会ったことがあるだけに一番驚いているかもしれない。
 「どうよ、陛下は」
  ゆったりと玉座に座るリオフを上からちらりと覗き込むと、愉快げに薄い唇がつりあがっていた。
 「なかなか興味深いな。この俺に喧嘩を叩き売った小娘は初めてだ」
 「小娘ったって三つしか変わんねーじゃないですか」
  まあ、帝国の十六歳の娘より幼く見えたが。でも体の方はそこらの女より、育っていたか。
  邪まな感想を察知したのか、ハインリヒが軽く睨んでくる。
 「しかし陛下、あんなふうに言って……」
 「事実だろう?」
 「彼女を選んだのは、トルージアが良国であることも大きな理由の一つですよ。気は抜けませんが、賢
 く頼もしい隣人ですから」
 「時々すっげぇ目障りだけど」
 「コンラート」
  首を竦めて、コンラートは笑った。
 「隊長」
  我にかえって素早く出て行った王女たちに案内を指示してきたタキが、なんともいえない顔をしなが
 ら戻ってきた。
  いつも笑顔の部下には珍しい。
  リオフが声をかける。
 「ご苦労。……お前、あんな王女と一緒に旅するのは面白かっただろう」
  言えば、コンラートとハインリヒにも見つめられて、タキは困ったように吐息をついた。
 「いえ……それが驚いてますよ。とてもあんな……こう、反抗的というか反骨的といいますか、そんな
 かんじの方ではありませんでした。普通といえば語弊がありますが、まあ、後宮にいらっしゃるような
 高貴なお姫様そのまんまというかんじで」
 「へぇ?」
  猫かぶってたんでしょうねぇ、とタキは苦笑いした。
 「まあ、供がたった一人というのも、異例でしたし」
  ハインリヒも隠せない興味に眼鏡の下の瞳を細める。
 「ああ、あのお嬢ちゃんな」
  コンラートは、遥か海の国、トルージアから来た二人の少女をもう一度思い浮かべた。
  サフィニア王女の容貌は、なるほど堅物なハインリヒが褒め称えるのも無理がないほどほど美しいも
 のだった。
  月の光りで紡ぎだしたような銀糸の髪は腰まで長く、すらりと細い彼女を包むように輝き。薔薇色の
 頬と潤う唇は匂い立つようで、トルージアらしく開放的な純白のドレスから伸びたたおやかな手や華奢
 な首筋はどんな娘よりも瑞々しく見えた。
  おまけに、あの真っ青な瞳。
  けぶるような銀色の睫が瞬きする度、きらめくようだった。
 「怒ったときが、特に良かったな」
  同意するように低くリオフが笑う。
 「あの目だろう」
 「ええ」
  リオフが挑発するたびに、深く、濃く、鮮烈に色を深めていく。
  最後はいつか見た異国の海のように、鮮やかな群青だった。
 「……あの侍女も、見事なものでしたが」
 「地味だけどな」
  入室してきたとき、護衛という近衛騎士の性質上、目を走らせはしたが。
  正直、彼女の容姿は何も印象に残っていない。
  せいぜいが大人しい淡い色のドレスを着ていたような気がするくらいだ。
  だが、
 「陛下と姫サンがやりあってる間中ずっと、表情変えなかったぜ」
 「出て行く最後まで、ですよ」
  侍女らしく、しとやかで慎ましい仕草だったように思う。
  だが、自分にではないにしろ、リオフの怒気を向けられて平気でいられる人間は少ない。男、女かか
  わらず。案外肝が太いのか。
 「タキ」
  水を向けられて、タキは苦笑のまま首をひねった。
 「いえ、自分も彼女のことはよく分かりません。普通の娘に見えるのですが……」
  普通の娘。
  そう言いながら、否定する。
 「なんというか、ちょっと変わっていて」
 「具体的には?」
  ハインリヒに、タキは首を振った。
 「ああ、でも、やたらと色々な聞いたことのない物語を知っていましたね」
  ものがたり?
  コンラートたちは首を傾げた。
  的外れなことを言っている自覚はあるのだろう、タキは苦笑を深めた。
 「王女がねだるんですよ。それで話すんですが、それはわりと面白かったですね」
  ふぅん。
  コンラートは笑顔の下で考える。
  物語ね。王女がねだる類のものじゃ、自分が主に寝台の上でするような艶っぽいものには向かないか。
  試してみるのも、一興ではあるけど。
 「とにかく」
  リオフがゆっくりと口を開いた。
  コンラートたち三人は反射的に背筋を伸ばし、彼に意識を集中する。
 「どうやら、あれに関しては見極める必要があるな。単に短気な馬鹿なのか――」
  本当に大物なのか。
  実際、リオフにケンカをふっかけたときの王女の気迫には目を見張るものがあった。
  ――大物、であったなら。
  コンラートはにやりと笑う。
 「先に言っとく。オレは異存なし」
 「気が早いですよ」
  ハインリヒが窘めた。
 「……まだ、時間はある」
  そうは言ったものの、王女が出て行った扉に目を向けるコンラートの主は、抑え切れない興味に急い
 ているように見えた。
  あの王女は、自分たちを楽しませてくれるだろうか。
  それもいずれ、分かるだろう。

はい、前回最後まで名前の出なかった近衛騎士団隊長コンラートでした。ハインリヒは身分隠して行ってました。
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