サフィニアがやらかしてしまってから。
  幸いなことに、適当にうろうろしていたらタキから頼まれたという案内の人がすぐ来てくれたので、
 わりとあっさり後宮に行けた。
  いや、行きたくなかったんだけど。
  どうやら後宮は、王城を抜けた奥らしい。
  それにしても広いな、この城。と、どこまで歩かせられるんだか微妙に心配になりだしたころ、案内
 の騎士はようやく足を止めた。
  やたらと豪華な長い回廊の先、城壁とまではいかないがかなり高い塀が現れた。視線をめぐらせてみ
 ると、それは大きく円を描いているようだ。
  なるほど、後宮をこれで囲っているのか。
  本当にまるきり籠の鳥みたいな扱いに入る前からげんなりする。
  そしてその門。
  何をどうやって持ってきたのか、巨大な一枚岩でできたような頑丈かつ堅牢そうな扉には、遠目にも
 見事な彫刻がほどこされている。
  中央に、枝を広げる大樹。そこ此処で小鳥が遊び、花が咲き誇る、楽園のような。
 「……」
  隣で、微かにサフィニアが細く吐息をついた。
  そっと添えている手に、力がこもる。
  サラも強くサフィニアの手を握り返した。
 「自分はこれ以上進むことができませんので、これで」
  直立した騎士に礼を言い、サラたちはゆっくりと足を踏み出した。
  騎士が合図すると、がらがらと歯車が回るような音をたてて扉が開いていく。
  ふわりと花の香りが流れてくる。
  小さくサフィニアが囁く。
 「……サラ」
 「はい」
  群青に色を変えたサフィニアの瞳は、緊張にか昂揚にか、熱く潤んでいた。
 「行くわよ」
 「はい」
  それ以外、サラに言うべき言葉はない。
  頷きだけを返して、サラは後宮へ足を踏み入れた。


初期装備でボスキャラ戦は無謀でしょ?


  ……きれい。
  それが、第一歩を踏み入れたサラの後宮への最初の感想だった。
  大きく円を描いた塀に守られた、俗世と隔絶した世界。
  門を抜ければ、整然と手入れされた見事な庭がまずサラたちを出迎えた。青々とした芝生、形をとと
 のえられた庭木、彩りを計算された花々。
  サラの記憶にあるイングリッシュガーデンに印象としては近いかもしれない。
 「――ようこそお越しくださいました」
  美しい光景に目を奪われていると、出し抜けに声をかけられた。
  飛び跳ねる心臓を隠して、できるだけ悠然とサラは振り返る。横目で確認したサフィニアは、すでに
 王女然とした表情を繕っている。
  玲瓏と落ち着いた声音にサラは振り返り――息をのんだ。
 「お初におめもじ仕ります。当宮を任されております、クレア・エイデンと申します。以後、どうぞよ
 しなに」
  このうえなく優雅に腰を折る、その痩身。
  垂れた細首の白さが目に眩しい。
  顔をあげると、ゆったりと背でまとめた青みがかった艶やかな黒髪が揺れる。その毛先一筋にいたる
 までが、匂い立つようだった。
  睫の長い切れ長の瞳が上品に微笑む。
  ――び、美女!
  清楚な美女!
  皇帝ったら謙遜しすぎだって。殿下ももちろん綺麗だけど、ジャンルが違うっていうか、ううわ皇帝
 っていい職業だな。ていうか、この人に満足できないであと三人もってどんだけ!
  とか思っていると、おそらく鏡で美人を見慣れているらしいサフィニアが応えるように一礼した。
 「サフィニア・シルフ・エル・トルージアですわ」
  おっとっと。
  サラも慌てて、頭を下げる。
  殿下……ていうのはもう、使えないか。基本的にその敬称は王位を継ぐ資格がある直系だけに許され
 ているものだ。
  カルテガルドに嫁いだからには、もう違う。
  でも妾妃さまって呼びたくないし。
  考えた末、サラはこう言った。
 「……サフィニアさまにお仕えしております、サラ・マルディンと申します」
  無礼にはあたらなかったようだ。お咎めもなく、クレアは見惚れるほど綺麗に微笑んで、もう一度頭
 を下げた。
 「では、一先ずお部屋にご案内いたします」
  どうぞ、とクレアは歩き出す。
  そのときサラはようやく、クレアがドレスを着ていないことに気付いた。簡素だが、仕立てのよさそ
 うな官服は完全に男物だ。
  首を傾げる。
  後宮を任されているというからには、女官なのだと思ったのだけど。
  ちなみに『女官』というのは、トルージアでも帝国でも、サラのイメージとは少し違うようだった。
 てっきり侍女のまとめ役だとか後宮に仕える女の人だとか思っていたのだが、ここでは役人、つまり官
 吏の女性のことをいうらしい。
  男女平等とはいいにくいが、帝国ではそれなりに女性にも政治への門戸が開かれているようだった。
  とはいえ、その女官の女性たちだって当然のようにドレスを着ていたように思うのだけど。
  先を行くサフィニアもその点は気になったらしく、やや悩んだようだが、結局口を開いた。
 「あなた、女官ではないの?」
 「どうぞクレアとお呼びください」
  言って、彼女は苦笑した。
 「はい、私は女性ではありませんから」
  ――?
  てことは、男!?
  一瞬考えてから、サラは目を丸くした。
  思わずクレアを二度見する。
  こんなに綺麗なのに、男?
  容姿でいったらハインリヒもどちらかといえば女性的ではあったが、彼はどう見てもしっかり男だっ
 た。けれど、クレアは上から下までじっくり眺めても、美しい女にしか見えない。
  驚くサラとサフィニアに、彼は苦笑した。
  慣れているのだろう。
 「宦官なのです。宮には私しかおりませんが……」
  直接的な単語を使った。
  へえ、クレア一人しかいないんだ。
  ていうか、宦官って、宦官って、
 「い……」
  たくなかったですか、と続ける前に、サラはかろうじて口を閉じた。
  首を傾げるクレアに曖昧に笑ってみせる。
 「なんでもありません。お気になさらないでください」
  いやいや、危ない。
  さすがに痛くなかったですかとか、聞けないからね。
  こっそり汗を拭って、歩くクレアの背中を凝視した。
  それにしても、こんな美形が切っちゃったなんてもったいない。
 「……ずいぶん静かね」
  サフィニアが周囲を見渡すように言った。
  確かに。
  鳥でも放しているのか、その小さな鳴き声しか聞こえない。人影も見ない。
 「みなさま、緊張しておられるのでしょうが、普段からこのようなものですよ。宮は広いですし、いま
 はそう人も入っておりませんし」
 「そう」
  つまり様子見で引き篭もっていると。
  まあ、初日からがつーんとケンカ売られるような事態はなさそうでよかった。
 「……あら?」
  おそらく、かなり奥に進んだだろう。
  なんだか空気が変わってきたような……密度というか、湿度というか。どこか甘い匂いが漂い、回廊
 からみえる庭に背の高い緑が増えた。
  後宮の姫が住まう建物は、外周に沿って楕円を描いているようだ。三日月を思い描くとわかりやすい
 だろうか。
  中庭のほうにトルージアの王城のような白亜の回廊があり、円の外側に枝分かれするように部屋が続
 いているようだった。
 「お気付きですか」
  クレアが庭をさす。
 「当宮の庭はふたつに分かれておりまして、ひとつは南国を模したものなのです」
  ふうーん、それでやたらと赤かったり大きな果実が実った木があったりするのか。
  日本にいた身としては多少濃い湿度は馴染みがあったし、整然とした庭も美しいけれど雑多な雰囲気
 のあるこの庭も面白いし居心地がいいと思う。
 「あ、サフィニアさま、池がありますよ」
  ていうか、泉?
  蓮の葉みたいな大きな葉がぽつぽつと浮かび、岸辺には見たことのない黄色の花をつけた野草が咲い
 ていた。
  小さいが、水も澄んできれいな泉だ。
 「あら本当」
  少しだけサフィニアの声がはずむ。
 「後ほど散策されるとよろしいですよ。こちらには、サフィニア様の他はどなたもいらっしゃいません
 ので、ごゆるりとお寛ぎください」
  ふうん、そうなのか。
  その真意は気になるところだが、それは助かる。
  そもそも人付き合い自体が苦手なのは別にしても、煩わしい人間関係からは極力遠ざかっていたい。
 ……無理だろうけど。
  やがてクレアは、何でできているのか白くてこれまた彫刻の陰影も美しいドアの前で立ち止まった。
 ここがサフィニアの部屋らしい。
 「どうぞ」
  クレアがドアを開ける。
 「これは……」
  サフィニアは珍しく、感嘆の声をあげた。
  無理もない。
  落ち着いた色合いの調度品はどれも一級のものだろう。庭にあわせているのか、どことなく南国の雰
 囲気がした。
  部屋はいくつかに分かれていて、一通り案内されたサラたちは最終的に居間に落ち着いた。客間やら
 何やら部屋数が多すぎる気がするが、湯殿がついているのは助かる。わりと素敵な浴室は、夜は窓から
 月と庭が眺められるだろう。
  サフィニアは寝室だけはちらとしか確認しなかったので、サラはすぐに切り上げることにする。
  疲れているだろう。
 「クレアさま、今後はどのような予定になっていますか?」
  もしや他の妾妃たちに挨拶やら色々しなければいけないんだろうか。
  けれどクレアは首を振った。
 「今日は夜までお寛ぎくださいませ。宮に関する詳しいご説明は後日いたしましょう」
 「そう、ではサラ。お茶をいれて」
 「はい、かしこまりました」
  クレアの分には言及しない。
  彼は素早くサフィニアの意図を汲み取って、嫌味なく微笑んだ。
 「ではサフィニアさま、私はこれで失礼いたします。何かと不自由なこともあるかと存じますが、どう
 ぞそのときは何なりとお申し付けくださいませ」
 「ええ、よろしくお願いするわ」
 「失礼いたします」
  ドアを閉める最後のときまで、彼は穏やかな態度を崩さなかった。
  完全にクレアが出て行くのを見送ってから、サラはこれでもかというくらいに脱力した。
 「もう……なにやってんですか!」
 「だってぇ」
  むう、とサフィニアは唇を尖らせた。
  その表情は非常に可愛らしいが、騙されはしない。
 「作戦はどうしたんですか、演技は? サフィニアさまから言ったんですよ」
 「腹が立ったんだもの」
 「分からなくはないですけどね……」
  ぐったりと溜め息をつく。
 「……お茶いれます」
  荷物はすでに運び込まれているようだった。小物をまとめたもの以外はないので、ドレス等はクロー
 ゼット等の衣裳部屋にしまわれているのだろう。あとで確認ついでに、小物も片付けなければ。
  サフィニアは座り心地のよさそうな、布張りの長椅子に腰を降ろした。
 「冷たいのにして」
 「はい」
  なんと、しっかり茶器には氷が用意されている。至れり尽くせりのホテルみたいだ。
 「果物もいれますね」
  ついでに横に盛ってある果物も蒸らし時間をつくって剥いていく。カットして果汁を絞る。冷たいフ
 ルーツティーはサフィニアの夏のお気に入りだ。
 「お前も飲みなさい」
 「はい、お言葉に甘えて」
  遠慮せず自分のものも用意すると、サラは高級そうな薄い硝子のグラスをサフィニアに差し出した。
 勧められて、向かいに座る。
  くっと一息で半分を飲み干して、サフィニアは疲れたように椅子に背を預けた。
 「……あの皇帝、どう思う?」
 「名前なんでしたっけ」
  覚えられなかった。
 「リオフ・アントガルド・ソル・エルシオル・サルテ・カルテガルド」
  さっすが。
 「ルが多いですよね」
 「それはどうでもいいのよ」
  ですよね。
  でもそれ、本人も覚えるの大変たったんじゃなかろうか。
  サラは考えるように一口紅茶を飲んだ。喉を冷たい甘みが通り抜けていく。
 「……評判通りの方だと思いました」
  あと、超肉食系男子。
  男子ってかんじじゃないけど。
 「評判ねぇ」
  サフィニアは長い指を顎に添えた。
 「美形で、賢くて、強くて、下々にお優しい皇帝陛下?」
 「優しいかどうかは分かりませんけど、おおむねそんなかんじです。頭良さそうでしたし、なんだか強
 そうでした。美形なのは間違いありませんね」
 「癪に障る男ね」
  身も蓋もない。
  何にしても、えらく高スペックな男だった。まだ十九歳のくせに。
 「その完璧な皇帝陛下は、取るに足らない塵屑みたいな小国の女に子供を生ませるつもりのようだけど」
  そこまで言ってませんよね。
  どう返せばいいか分からず、サラは沈黙する。
  ――だって、それをサフィニアが拒めるはずがない。
  サフィニアは、その皇帝のもとに嫁いだのだから。つまり、子を生むのが役目であり、最早使命とさ
 えいっていい。
 『王族の結婚は政略だからね』
  オルビッチの言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
  それは、こういうことか。
  おそらく、陛下――トルージア国王もこのことを察していたに違いない。彼はサラにでさえ分かるほ
 どの切れ者だった。愚鈍とは縁の遠い人だ。
  では、とサラは小さく身震いする。
  知っていて、彼は娘をさしだしたのか。
  分からない。
  それは国のため? 守るために? 逆らえなかったから? メリットを生むから? 娘がどんな思い
 をするか、知っていて?
  王とは、政治とは、こういうものか。
  納得するのは難しかった。
 「――父さまは」
  はっと、サラは顔をあげる。
  サフィニアの群青の瞳が強く光ってサラを見ていた。
 「サラ、そんな顔をしないで。まるで私が可哀相じゃないの」
  違うんですか。
 「最後に父さまは、私ならここで勝ち残れるって言ったわ。いま意味が分かった」
  サフィニアは傲然と鼻で嗤う。
 「いい? 生き残るではなく、勝つのよ」
  サラは瞬いた。
 「あんな幼稚な嫌味に屈したりしないわ。皇帝の寵なんていらないけど、くれるっていうなら、利用す
 る。最大限にね。私は私を、変えたりしない」
  ――暫し、サラは言葉を失った。
 「……サフィニアさまって」
  くす、と笑みがもれる。
 「なによ」
 「いえ、別に」
  サラは笑い続ける。
  冷えた心が、軽くなっていた。
  出会ったときからそうだ。サフィニアは、サラの予想の上をいく。
  こういうところが――。
  サラはやっと、本来の笑みを浮かべることができた。 

後宮といえば宦官だろ。イケメンならさらによし
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