食事はサフィニアを慮ってか、トルージアの料理が多かった。
 　新鮮な魚介や、甘い果物。
 　ちなみにトルージアは魚介類の料理で有名だけれど、日本のように生で食べたりはしない。圧倒的に
 火を通す場合が多かった。それに、タコやナマコに似た生物はいるが（港で見せてもらった）食用には
 しないらしい。
 　思うに、こちらの人々は食への追求が甘い気がする。おいしいのに。
 　この世界はこの世界なりの常識があって、例えば魔法だとか幻獣だとかはサラがいた世界にはなかっ
 たものだ。しかし、重なる部分も多々ある。ネコや鳥、生物は同じものがいるし、葡萄や百合など、同
 じ食物や植物だってある。
 　まるで少しずつズレながら、重なり合っているようだった。
 　――まあ、なんにせよ、まるっきり食生活が変わらないのはいいことだと思う。
 　いきなりグロテスクな見たことのない食べ物をつきだされると困るし。
 　でも米は食べたいな。
 　クラチナ大陸は基本的に小麦製品が主食なのだ。パンとか。
 　その辺のサラの事情は置いておいて。
 「サフィニアさま、湯浴みの用意ができました」
 「……ええ」
 　食事がすむと、目に見えてサフィニアの顔色が悪くなった。段々と表情が消え、時折握り締める手指
 が白くなっている。
 　この後のことを、意識しているのだろう。
 　夕食後に、正式に皇帝の『お渡り』の旨が寄越されたから。
 　サラの気分も塞いでいく一方だが、当の本人に何を言えばいいか分からないから、態度を変えないこ
 とだけを気をつけた。
 　薄桃色の大理石で誂えられた浴室に湯気がこもる。浴槽に張った湯には、緊張しているサフィニアの
 ためにか、ハンナが可憐な花の花弁を浮かべてくれたようだ。
 「では、ご用のときは呼んでください」
 　サフィニアは一人の入浴を好むので、呼び出し用の鈴だけを置いてサラは部屋へ下がった。
 「ハンナさま、後はお願いします。サフィニアさまがお呼びになるまで、控えていただいて結構ですの
 で」
 「ええ、心得ました」
 　サフィニアには悪いが後をハンナに任せて、サラは一度傍を離れることにした。だってお腹空いたし。
 　妾妃の部屋数は多く、侍女のための控えの間だって当然ある。幾分か小ぶりだが、むしろその方がサ
 ラとしては落ち着くというものだ。
 　控え室に下がると、マーヤがとびきりの笑顔で出迎えてくれた。
 「お疲れさまです、サラさま！」
 　ああ癒される。
 　こんな子がお嫁にきてくれて「お帰りなさい」とか言って帰宅すると出迎えてくれると幸せだろうな
 あ。
 「軽いもので申し訳ないんですけど、お夕飯用意しておきました」
 「あら」
 　テーブルの上には、サンドイッチと温かいスープ。
 　見習いにしては手際よく、丁寧にお茶もいれてくれる。
 「ハンナさんが、今日はサラさまはサフィニアさまのお傍を離れられないだろうからって。お夜食もご
 用意しておきますね」
 「ありがとう、マーヤ」
 　とりあえず目についた肉が挟んであるサンドイッチにかぶりつく。
 　うーん、さすが美味。でも肉は別にお上品じゃなくていいから、もっと分厚い方が嬉しかったのに。
 　それはそうと、
 「マーヤは、ハンナさまと親しいの？」
 「あ、はい」
 　向かいの席に、マーヤは短く揃えたゆるく波打つ金髪を揺らして座った。……一緒に胸も揺れたのを
 こっそり凝視したのは内緒だ。
 「ハンナさんは、あたしの遠縁にあたるんです。働きに出ようと思っていたときに、変なところに行く
 よりはって口をきいていただいて」
 　なるほど。
 　それで、ハンナに対して気安い口調だったのか。
 　サラは咀嚼して飲み込むと、マーヤに笑みを向けた。
 「そうなの。わたしもまだ分からないことが多いけど、何かあったら言ってちょうだいね」
 「ありがとうございます、サラさま」
 　うーん、素直。
 　かわいいなあ。
 　ていうか、久しぶりに喋るのに敬語使ってないな。トルージアでも王城に勤めていれば、ほぼ目上の
 人たちばかりだし。
 　マーヤの場合は、うんと年下なところも気安い理由のひとつだろう。
 「そんなにかたくならなくていいのよ。同じ侍女なんだし」
 　小動物めいた仕草で、マーヤは上目でサラを見上げた。
 「でも、あたし見習いですし、サラさまは伯爵さまのご令嬢なんでしょう？」
 　おや。もうそんな情報まで出回ってるのか。
 　後宮の侍女たちの情報網も侮れないな。
 「貴族っていっても、わたしは養子だもの。もとは一般庶民よ」
 「そうなんですか？」
 「そう。行き倒れていたところを拾ってもらったの」
 　笑って言うと、マーヤはぎょっとした。
 「行き倒れ!?」
 「そうなの。でも内緒よ」
 　他の侍女に広まると、何を言われるか分かったものじゃない。
 　まあ、広まったところで何をするでもないけれど。
 　マーヤが髪よりも濃い、飴色の瞳を瞬かせる。
 「誰にも言いません、けど……ハンナさんにはいいですか？」
 「もちろん、どうぞ」
 　思わず笑みが零れる。
 　年齢のわりに、律儀なようだ。
 「サラ……さんは、サフィニアさまにお仕えして長いんですか？」
 「そうでもないかな。二年くらいだから、わたしも侍女としては新米なのよね」
 「はぁ……そうは見えないです」
 　それは褒められたのだろうか。
 「ありがとう」
 　さて、お茶も飲み干したし。
 　サフィニアも今日は長湯しないだろうから、いま戻ればちょうどいいはずだ。
 「ごちそうさま、美味しかったわ。片付けはお任せしていいのかしら」
 「あ、はい、だいじょうぶです」
 「お願いね」
 　言い置いて部屋を出ると、予想通りちょうどサフィニアが湯からあがったところだった。
 　――やはり、表情がかたい。
 　夜着はサラが用意した。あからさまなものを避け、適度にかわいらしく、新しいものを。紐と釦がつ
 いているから邪魔になるかもしれないが、サラの知ったことではない。サフィニアが精神的に少しでも
 安心すればいい。
 　着付けるハンナはそれを見てどう思っているだろうか。微かに笑みを浮かべてはいるが、サラには読
 み取れない。
 「遅いわ」
 「申し訳ございません」
 　少し、ぴりぴりしている。
 　普段ならサラが多少席を外していようが、別段気にすることもないのだが。
 　――仕方ないか。
 「ハンナさま、あとはわたしがしますから」
 　窺うようにサフィニアを見遣れば、小さな頷きが返ってくる。
 　ハンナは従順に頭を下げた。
 「はい、では失礼します」
 　彼女が出て行ってから、サラはサフィニアを居間に移動させた。
 　寛ぐために調えられた部屋はサフィニアの好みからいってそう外れていないはずだが、今日ばかりは
 ひとつ隣に寝室があるため緊張が募るようだ。
 「サフィニアさま、バルコニーに出てみませんか」
 「……外？」
 「はい。きっと風が涼しいですよ」
 　サフィニアの居間と寝室は、建物の二階にあたる。位置からいって、回廊の真上だろうか。
 　バルコニーはあまり広くなかったが、籐で編んだ椅子が二つ置いてあり、真ん前の泉と緑深い庭が見
 下ろせた。
　 庭のもたらす清涼な空気に、サラはほっと肩の力を抜いた。
 「どうぞ、お座りください」
 「……」
 　サラは用意していた香油の蓋を開ける。
 　サフィニア愛用の香油は、甘いなか少しだけスパイシーな香りがした。エキゾチックな雰囲気がして、
 サラもわりと気に入っている。
 　少しだけ掌に垂らし、サフィニアの手足を丁寧にマッサージしていく。
 「どうですか？」
 「ちょうどいいわ」
 　心此処にあらず、といったところだろうか。
 　サラは困ってしまう。
 「そういえば、マーヤと少し話をしました」
 　ふ、とサフィニアの視線が戻ってくる。
 「あの子と？」
 「はい。なんでも、ハンナさんの遠縁の子らしいですよ」
 　指をすべらせ、筋肉をほぐす。今日はいつもより返ってくる手ごたえがかたい。やはり気を張ってい
 たのだろう。
 「出稼ぎでしょうか。家を出て働こうとしたところ、ハンナさんが口をきいてくれたとか」
 「ふうん……だとすると、ハンナはけっこうな地位の侍女なのかしらね。それとも、爵位持ちの家なの
 か。年配の侍女が若い親族に口ききするのはけっこうありがちだけど、それが後宮にっていうのはちょ
 っとないもの。あのマーヤって子、貴族じゃないんでしょ？」
 「そうみたいですよ。ハンナさんは分かりませんけど」
 　サフィニアは考え込んだようだった。
 　サラは邪魔しないように、ただ黙ってマッサージを続けた。

 「……さて、ではお茶でもいれてきましょうか」
 　余分な香油を拭き取って、立ち上がる。
 　いつもならこれで就寝の流れになるけれど、今日はそうもいかないから。
 「ええ」
 　目が覚めたように瞬きを繰り返して、サフィニアは立ち上がったサラを見上げ、笑みのようなものを
 浮かべた。
 「温かいのでいいですか？」
 「そうね……」
 　サフィニアが頷きかけたそのとき、来客を告げる鈴が鳴る。大きなものではないのに、確実に頭に響
 く音は魔法に他ならない。
 　サフィニアが強張った。
 　サラも少し心臓を跳ねさせたけれど、
 「……大丈夫ですよ、サフィニアさま。まだ早いですから」
 　では誰が、何の用だ。
 「お待ち下さい。見てきます」
 　あっという間に顔色を失くしたサフィニアに、サラは舌打ちをしたい気分で玄関口までの階段を駆け
 降りる。荒々しく部屋を横切り、ドアの前で深呼吸した。
 「――はい、どちらさまでしょう」
 「遅くに申し訳ございません、クレアです」
 　宦官がこの時間に、何用だ？　
 　皇帝を連れてきたわけでもなさそうだし。
 　サラはドアを開けた。
 「どうなさいました？」
 　クレアは、昼間と同じように隙のない官服を着て、清楚な美貌を複雑な微笑で歪めていた。なんだろ
 う、微量の罪悪感と韜晦の窺える眼差し。
 　彼は無言で、手に持った盆をサラに差し出した。
 　銀盆に乗った硝子のグラスは華奢でいかにも女性らしい。薄く色づいた、どことなくとろみのある液
 体だ。
 「……こちらは？」
 「宮にお入りになった夜、妾妃様におすすめする慣わしとなっております」
 「――！」
 　受け取ったそれを、サラは一瞬取り落としそうになった。
 　信じられない気持ちでクレアを見る――けれど、これも当然なのかもしれない。
 　つまり、これは、媚薬か。
 　初夜を受け入れられない花嫁も、もちろんいるだろう。
 　でも、だからといってこれをサフィニアに差し出せと？　サラが？
 「サフィニア様は……」
 「かしこまりました。サフィニアさまは疲れておいでですので、これで」
 　生唾を飲み込み、サラは早口でクレアを遮った。
 　これは、彼の仕事だ。
 　けれど今は、長く顔をつきあわせているのは、無理だった。
 　さっと目を逸らすと、クレアは黙り込んだ後ゆっくりとドアを閉めた。
 　礼を失した振る舞いだったが、サラには助かった。何か一言でも彼が発していれば、皮肉を返さずに
 はいられなかったろう。
 　手の盆が重い。
 　サラはよく考えられないままに、サフィニアのもとへ戻った。
 「……サラ？」
 「サフィニアさま……」
 　弱々しい声。
 　こんな声を彼女に聞かせるのは初めてかもしれない。
 　だからだろうか、サフィニアは柳眉を寄せた。青い視線が、サラの掲げ持つ銀盆へ向かう。
 「……それは何？」
 　ひゅ、と喉が鳴った。
 　微かなそれは、風に紛れたけれど。
 　なんと答えればいいか分からなくて、クレアに言われたままを呂律の曖昧になった舌で復唱する。
 「後宮に入った初めての夜、妾妃さまにお飲みいただくものだそうです」
 　途端、サフィニアの顔色が真っ白になって、サラはようやく自らの失態を自覚した。
 　サフィニアは何か言おうとして、けれど何も見つけられずに口を噤む。
 　サラは手のグラスをサフィニアから遠ざけるように、手前のテーブルにそっと置いた。
 「私は……」
 　どこか呆然と、サフィニアが呟いた。
 　サラははっと顔を上げる。
 　夜の闇に沈んだ蒼穹の瞳が、グラスを凝視する。
 「私は、それを飲まなきゃいけないの……？」
 　サフィニアのその囁きもまた、サラが聞いたこともないほど震えていた。
 　それは、ほとんど衝動だった。
 「――――っ！」
 　華奢なグラスのステアを握り締めて、バルコニーの手すりから下へ、引っくり返す。
 「サラ!?」
 　サフィニアの驚く声。
 　中の液体はあっという間に零れ落ち、下の暗闇に溶けて見えなくなった。
 「サラ、なにを……」
 「サフィニアさまは」
 　肩で息をして、サラはサフィニアを見つめた。睨むといっていいほどの強さで。
 「サフィニアさまは、どうしたいですか」
 　咄嗟に立ち上がりかけたサフィニアが、動きを止める。
 　サラは大きく呼吸を繰り返した。
 　どうしよう、涙が滲む。
 　喉がつっかえて、苦しくてたまらなかった。
 「サフィニアさまが嫌だと言うのなら、誰一人、部屋には通しません」

 　本当にそんなことができるのか、そのためにどうすればいいのか、そしてそれが何を引き起こすのか。
 　そんなことは関係なかった。
 　考えていなかった。
 　問題ではなかった。
 　ただ、サフィニアが望むなら、或いは望まないのなら――、

 「サ、ラ……」
 　サフィニアとサラが、向かいあう。
 　赤い唇が戦慄きながら開こうとした、そのとき。
 　りぃ――ん、と。
 　鈴が鳴った。
 　サラとサフィニアは、はっと振り返る。
 　今度こそ、皇帝だ。
 「――サフィニアさま」
 　サラはサフィニアに、答えを迫った。
 「私は……」
 　惑うように、サフィニアは灯りのともる部屋へ、視線を彷徨わせた。
 　逡巡は短かったように思う。
 「――陛下を入れてちょうだい」
 　束の間、サラは口を噤む。
 　陛下、とサフィニアが彼を呼ぶ口調は、いままでと少し違っていた。
 「いいんですか」
 「ええ」
 　意外なほどきっぱりとサフィニアは頷く。
 　自ら硝子のドアを開け、部屋の中へ足を進める。
 　肩越しに、サフィニアは振り返った。
 「どうしても、何がなんでも嫌なら、私は帝国に来る前に……婚姻の申し入れがあったあのときに、抵
 抗するべきだったのよ。だから、いいの」
 　逆光で、サフィニアの顔が見えない。
 　サラには主が何を考えているのかなんて分からない。
 　でも、サフィニアが誇り高いことだけは、知っていた。
 　だから膝を折る。
 　ドレスの裾をつまんで、深く頭を下げる。
 「――それでは、寝室でお待ちください。陛下をご案内して参ります」
 　返事はきこえず、ただ小さな足音だけが遠ざかった。