サラが出迎えた男は三人。 一人は言わずもがな、皇帝陛下。二人目は謁見の間で彼の傍に控えていた騎士、もう一人は年端もい かない少年だった。侍従のようだが、お仕着せを着せられている感がするのが、幼さに拍車をかけてい た。 「――こちらでございます」 ようこそ、とか、お待ちしておりました、とか言わなければならないのかもしれない。 だがサラはそのどれもが相応しくない気がして、ただ最低限の礼だけで彼らを中へ通した。 皇帝がちらりとサラを見下ろし、騎士が面白そうなものを見たとでも言いたげに目を細める。少年は 困惑した顔を隠せずにいるようだ。 ゆっくり案内しながら、サラは悩む。 サフィニアはああ言ったけれど、本当に彼を入れて良かったのだろうか。 やっぱり、突っぱねた方が……でも、けれど、しかし。 サフィニアの決意に副おうと思ったのに、葛藤ばかりが募ってゆく。募って募って、胸元がつっかえ て喉が苦しくなる。こめかみがガンガンと痛みだすほど。 サラはとうとう、居間のドアを開けた。 この部屋を抜けると、寝室だ。 「――!」 サラは思わず、掌をきつく握った。 サフィニアの震える唇が蘇る。 「お待ち下さい」 気付いたときには、そう言っていた。 サラは寝室のドアの前に立ち、皇帝を見上げる。 す、と翡翠色の双眸が眇められた。 「何のつもりだ」 「お通しすることはできません」 途端に、サラは緊張で指先を凍らせた。 これが覇気というのもだろうか。ただ見据えられているだけなのに、心臓が縮むようだ。 サラは生唾を飲んだ。 「私が何者か、分かっているのか」 それは警告だ。 でも。 「存じております、陛下」 彼は帝国の君主で、この後宮を好きにしていい男だ。 サラが背に庇うドアをくぐる資格と権利を持つ、唯一の男。 「ですが、今宵はお帰りいただけませんか」 頭は下げない。 ただ彼の底光りする眼を見つめる。さながら、獰猛な獣を前にしたときのように。 「ほう?」 くい、と長くかたい指が伸びてきて、サラの顎を持ち上げる。びくりと肩が震えるのを、サラはかろ うじて堪えた。 「この後宮は私のものだ」 「はい」 皇帝の口の端がわずかに吊りあがる。 「知っているのか? では、お前もまた私のものだということも、分かっているな?」 サラは目を見開いた。 そう――そうなるのかもしれない。 後宮につとめる侍女もまた、皇帝のものなのは、間違いない。 だから、代わりにサラも彼の相手をする義務があると? サラは違う。 「いいえ」 サラのきっぱりした口調の否定に、皇帝は僅かに眉を上げる。 「わたしはトルージアより、サフィニアさまにお仕えして参りました。ですので、わたしの主人はサフ ィニアさまです」 あなたではなく。 サラは一歩退いて、皇帝の手から逃れた。 「どうか、お引取りください」 重ねて言うと、今度こそ皇帝は表情を変えた。 怒ったのではない。 笑ったのだ。 頬を緩めると、少しだけ鋭い目尻が下がる。 翡翠の目に愉快そうな色が浮かんだ。 「名は」 「サラ・マルディンと申します」 「ではサラ、俺はお前の頼みは聞けない」 理由は言わなくても分かるな。 脅すような声音ではない。むしろ、言い諭すものに近かった。 サラは瞼を伏せる。 分からない、とは言えなかったからだ。 サフィニアと彼は、正式な婚姻を交わした。つまり、いまここで彼の邪魔をしているのは、単にサラ の我侭、勝手な真似なのだ。 出過ぎた、誰のためにもならない――。 そう、根本的にサラが口出ししていい問題ではない。 サラはゆるゆると吐息を吐き出した。 嫌になる。 何故か異世界なんてところにとばされて、それでもようやく人並みな生活を送れるようになって、一 国の王女の侍女に仕えるまでになって……でも、サラは日本にいたときと何一つ変わらない。 無力なままだ。 ただの、平凡な、何もできない小娘でしかない。 「……陛下」 ここで引き下がるのは、サラが卑怯だからだろうか。 無力なのを言い訳にして、逃げることになるのだろうか。 顔を上げたサラを、皇帝はただ待っていた。 迷った末、口を開く。 「サフィニアさまを傷つけないでくださいますか」 それは無理だ。 しかし訊かずにはおれなかった。 「できる限り、彼女を尊重すると誓おう」 それは文字通り、「可能な範囲」だろうけれど。 これ以上、おそらくサラにできることはない。 慈しんでくれとは言えないが、優しくしてあげてほしい。サフィニアはまだ十六歳だ。サラより二歳 も年下の、生まれてからずっと幸せに育てられてきた少女なのだから。 「……お待ちください」 サラはスカートの隠しから、小瓶を取り出した。 人差し指ほどの、小さく細い、華奢な小瓶は一見香水に見えなくもない。 サラは深呼吸して、それを皇帝に差し出した。 「――お使いください。主の母君から仰せつかって参りました」 トルージアの王妃に代々伝わる妙薬だといえば、用途は明らかのはずだ。 先程、同じものを捨てたサラだというのに、今度は自ら差し出している。 馬鹿。 救いようのない馬鹿だ。 「貰っておこう」 サラの手からひやりと冷たい硝子の感触が離れる。 慈悲をもって、彼はこの薬を使うだろうか。 サラは横にさがり、彼に道を開けた。 最早言うべき言葉などない。サラは目を伏せ、頭を下げた。ただ、扉を開閉する密やかな音だけが、 鼓膜を撫でた。 どのくらい下を向いていただろう。 サラは一息ついて、顔をあげた。 さて。 長身の騎士はあからさまに面白がるような顔で、侍従の少年はいかにも不安そうにサラを見ている。 今夜、彼らは皇帝が部屋から出てくるまで待機していなければならない。サラと同じに。 ならば、彼らの接待はサラの仕事だ。 「お二方、どうぞこちらへ。ただいまお夜食をご用意いたします」 居間続きのこじんまりとした部屋へ通す。 まさか寝室と隣り合う居間にいるわけにはいかない。だって声とか聞こえたら居た堪れないし。 マーヤが用意してくれていた夜食をテーブルに並べる。メニューはパンとスープと数種類の惣菜だっ た。わりと豪華。 お茶の用意をしていると、楽しげな笑い声が響いた。 「あの?」 カップに注ぐ手を止めずに目を向ける。 「いや、あんた大したもんだな。陛下にあれだけ堂々と楯突いた女、初めて見たぜ」 そして、甘い垂れ気味の目でいかにも懐っこく笑いかけられる。 「あんたの主人を別にすればな」 ええ? あんなにがっつりケンカ売ったつもりはなかったけど。 とはいえ、とりあえず頭を下げておく。 「おそれいります」 その受け答えは正解だったのか、不正解だったのか。再び明るい笑い声が上がる。 「ああ、笑った」 そりゃそうだろう。 サラはカップをそれぞれ、騎士と少年の前に置く。 「あ、ありがとうございます」 少年が気後れするように微笑む。 ……かわいい。 マーヤと同い年くらいだろうか。ミルクティーのような薄茶色の大きな真ん丸い目と、ふわふわの髪 をしている。びっくりするくらい睫が長く、サクランボのような艶々の唇の、つまり見たままを言うな らば、美少女顔だった。 なんだここは。 帝国って美形とか美人しか偉いひとになれないんだろうか。 やたらと女受けが良さそうな、甘ったるい顔立ちをした騎士が笑みを浮かべる。 「自己紹介しようか。オレは帝国騎士団近衛隊隊長、コンラート・グラフ・エイデン」 隊長なのか。 それが騎士団でどの程度の地位かは分からないが、皇帝が閨の護衛に選ぶ程度には高いらしい。 細身に見えるけれど、手足が長く、鞭のようにバネのある体つきをしているのが分かる。笑うたび、 赤毛の柔らかそうな前髪が傷のある眉の上で揺れる。 「僕はラインハルト・ヘルトと申します。陛下の御身の周りのお世話を任されています」 「サラ・マルディンと申します、よろしくお願いいたします」 ふむふむ、二人とも皇帝の側近中の側近なわけね。 というかさ、 「陛下意外の男性も、後宮に入れるんですね」 実はさっき玄関でお出迎えしたときからずっと気になっていたのだ。 コンラートは遠慮なく食事に手を伸ばしながら頷いた。 「原則として禁止だが、警備の関係上、許可を与えられた騎士はな」 なるほど。 コンラートは許可されていると。まあ、近衛隊隊長なら当たり前か。 原則として、というところがいかにも建前っぽい。 タキに聞きかじった話によれば、騎士は主に絶対忠誠を誓うものらしい。主人の女に手を出すなんて 騎士の名折れというか、切腹ものなんだろうが、そこはそれ、やはり実態はそういう事態が多少なりと も起こったりするに違いない。だって、そういうものだから。ちなみにこちらに切腹はない。 いっそ女の騎士とか登用してみたらいいのに。 では、ラインハルトはどうなのだろう。……今はどうでもいいのだけど、彼の名前は後に大成しそう な響きだな。好きだった小説では、帝国の皇帝にまでなったし。死んだけど。 サラがラインハルトに視線を向けたことで、考えを悟ったらしい。揶揄するようにコンラートは唇を 吊り上げる。 「普通、皇帝が後宮に渡るときは侍女がつくもんだけど、陛下はそもそも人に付き従われるのがあんま し好きじゃねぇんだよ。実質、世話はライ一人でしてるようなもんだし」 ふうん? 今更余計な新顔をわざわざ伴うなんてしたくない、と。 皇帝陛下がそんなので許されるんだろうか。……いや、許されなくてもあの迫力で押し通しちゃった んだろうな。 で、一人で皇帝のお世話とか、ラインハルトくんは意外とデキる子なのか。 それにしては、コンラートのいやらしい笑みとラインハルトの苦渋の滲む複雑そうな顔が納得いかな いのだが。 「それに、こいつはまだまだガキだからな」 「ああ」 おっと、思わず納得を声に出してしまった。 つまりどう見ても安全パイだから、後宮の妾妃とか侍女とかとごにょごにょという心配は無いと。 うーん、でもさあ……。 「僕はもう十四です!」 「だからまだガキじゃん」 顔を赤く染めて憤然と抗議するラインハルトは、それはもう可愛らしい。 サラがうっかりぎゅっと抱き締めたくなるくらいには、可愛らしい。涙目とか、もう最高。 個人的には巨乳ふわふわ天使メイドなマーヤと並べて愛でてみたいところなのだが、それは置いてお いて。 世慣れた手練手管に長けたお姉様方の捕食対象になってしまっても、おかしくないと思う。十八禁な 思考でアレなのだけど、どーてーな男の子を弄んで好きにしてあまつさえちょーきょーなんてしちゃっ たりとか、女性だけど攻めたいわ、なんてお姉様にがっつり狙われそうな見た目をしている。 しかもまずいことに、中身も大層可愛らしい予感がびしばしする。 ラインハルトくん、彼の今後が心配だ。 いやしかし、男の子的にはそれはそれで「よっしゃ!」な展開なのだろうか。 ――いやいや、ラインハルトは確実に嫌がりそうだ。でもそれがかえってお姉様方の嗜虐心を煽りそ うな恐怖のループ。 サラは思わず、微笑ましくコンラートに噛み付くラインハルトの手を握った。頼りない華奢な手だ。 ついついきゅっと力がこもる。 「夜道に気をつけてくださいね。一人で行動しちゃダメですよ」 真面目な顔で忠告せずにはいられない。 「隊長さま、ちゃんと気をつけてあげてください」 よく分からない顔をしている場合ではないよ、コンラートさん。 しっかり彼の貞操ていうか童貞……じゃなくて、純情を守ってあげてくださいな。 「あ、ありがとうございます……? 気をつけます……」 分からないなりに頷くラインハルトはいい子だと思う。 もう一度しっかり念押しして、サラは手を離した。 「お茶のお代わりはいかがです?」 「あ、僕も手伝います」 どうやら一度サラに用意させたことを気に病んでいたらしい。ラインハルトの手伝いを受けながら、 サラは思案する。 夜が明けるまで、まだまだ長くかかるだろう。 それまで何をして暇を潰すべきか。とりあえず、皇帝の側近とそこそこ親しくなっておくに越したこ とはない。 ……ところで、コンラートの肩が濡れているのは何故だろう。肩だけ。ちょっと気になる。 |