海辺の小国の夜は、絶えず細波が夜気を震わせる。
  昼間に温められた風がどこからか吹き込んできて、この二年で伸ばしたサラの髪を小さく巻き上げて
 いった。
  籐で編んだ椅子にゆったりと背を預けた壮年の男に、サラは王宮勤めで鍛え上げた丁寧な所作で茶を
 入れた。
 「蜜はどうします?」
 「砂糖がいいな」
 「あいかわらずですね、伯爵」
  しかし逆らわず、サラはつまめばほろりと崩れそうな角砂糖をひとつ、硝子のグラスに落とした。グ
 ラスはひんやりと冷え、結露が掌を濡らす。サラはそれを丁寧に拭いた。
  普通、冷たいお茶に砂糖を入れると完全に溶けることなくざらりとした感触が残るので、甘い果実で
 つくったシロップが好まれるものだが、サラが彼と知り合ってから一度も入れたところを見たことがな
 い。
  マルディン伯爵家当主オルビッチ・マルディンはふっくらと肉付きのいい頬に常に鷹揚な笑みを浮か
 べている。独身なのは性格に問題があるのではなく、単におっとりとしていたら婚期を逃したのだろう
 けれど、世間で噂される通り、少々変わり者なのも原因のひとつだとサラは思っている。
  まあ、外見がそのまま、中身とは限らない。それなりに高級品の氷をケチることなく使えることは、
 このマルディン伯爵家が裕福な証拠だ。
  こんなぽっちゃりなのに、案外やり手なんだろうか。
  いずれにせよ、彼がサラを拾ってくれなかったらサラは今頃死んでいた。決して生きてはいなかった
 だろう。
  まともに通じる言葉も話せず、ひたすら怯えて警戒する得体の知れない子供を、本当に無償で保護し
 てくれた。それはいまも変わらない。
  オルビッチ・マルディンはサラの恩人だった。両親に次いで、感謝している。
 「はい、伯爵」
  サラは冷たいグラスを気安い仕草で手渡した。
 「君は砂糖は?」
 「太るので」
  夜に糖分を摂取するなんて、とんでもない。
  サラはなぜだか残念そうな顔をするオルビッチににっこりと断固拒否の笑みを向けた。
 「わたしは飲むよ?」
 「ご自由に。伯爵は手遅れでしょうし、気にする必要ないでしょう」
 「ひどいよサラ」
  言って、泣きまねをする四十の男。
  サラは無視をして一口お茶をすすった。うん、うまい。
 「で、殿下の件はどうなってるんですか?」
 「うーん、君の方が詳しいと思うけど」
  ほよよん、とそんな擬音でも聞こえそうなおっとり具合で、オルビッチが首を傾げる。
 「わたしは政治とは関わりないし、噂話もそうしないからねぇ。誰も教えてくれないんだ」
 「そうなんですか」
  分かってはいたけど。
  この、おっとりのほほん伯爵が、肩書きに相応しく貴族然としていたら「変わり者」なんて言われて
 いないだろう。
 「伯爵は興味ないんですか、殿下の後宮入り」
  ていうか、実質婚姻だけど。
 「ないことは、ないよ?」
  本当かよ。
  オルビッチはグラスの底に溜まった、溶け残った砂糖を物欲しそうな目で眺め、小腹が空いたなぁと
 呟く。
  テーブルの端の果物を引き寄せて、剥いてやる。小刀を手に取るとサラの意図を読み取って嬉しそう
 な顔をした。
 「でも、もう決まりきってることだしね。帝国の申し入れを飲まないわけにはいかないし、条件的には
 悪くない。妥当だと思うよ」
  ……って、だいたいのところはもう知ってるんじゃないか。
  サラは半眼になる。
 「妥当ですか? 仮にも一国の王女が側室だっていうのに」
  普通は正妃なのでは。
  オルビッチはふくよかな頬で苦笑した。
 「妥当だねぇ。――まず、トルージアと帝国では国の規模が、力が、格が違う。正直なところ、皇帝の
 正妃なら、我が国の王族よりも帝国の上流貴族の方が相応しいくらいにね」
  サラは目を瞬いた。
 「でも……血統でいったら」
 「うん、王族同士に勝るものはないけど、でもそれだけだろう? 帝国としては、殿下を正妃にお迎え
 するよりも、有力な貴族の娘を据える方が返ってくるものが大きいんだよ」
  つまり、サフィニア王女を正妃にしてもメリットがないと。
 「それに血統といっても、上流貴族なら他国、自国の王族の血が入っているものだしねえ。ウチも、た
 とえばクラセル公の奥方は、陛下の妹君でいらっしゃるでしょ」
 「……ですか」
  サラは釈然としないものの、頷いた。
 「そうなんです。それちょうだい」
 「あ、はい」
 サラの口真似をしてから、オルビッチは子供のように剥いた果実に手を伸ばした。桃に似たそれを、
 実に幸せそうに頬張る。
  たっぷりと滴る果汁でべたついた手を濡れた手拭で拭き、サラも果実を口に運ぶ。
  食べるつもりはなかたが、誘惑に負けたのだ。まあ、一切れくらいならいいだろう。さすが、お貴族
 様が口にするものなだけあって、しっかり甘い。
  おいしーい。
  ああ、幸せ……けど一口で我慢だ。太るから。
  目の前に食べすぎぽっちゃりがいると、余計に自制心が働くよね。
  きれいに皿を空にしたオルビッチは、満足げに冷えたお茶を一口飲み、
 「それより、帝国はなんでウチの殿下を欲しがるんだろうねぇ」
 「え?」
 「だって、サラ。皇帝の評判は聞いているだろう? まさに引く手数多な若く優秀な皇帝陛下にお輿入
 れしたい人はたくさんいるだろうね。側室だって構わない、皇帝の後宮に入ることこそ肝心なんだから
 さ。貴族、令嬢問わず」
  ああ、そうか。
  それこそ、オルビッチの言う通りならサフィニア王女よりメリットの大きい候補者が幾人もいるはず
 なのだ。でも、それなら。
 「……じゃあ、なんでサフィニア王女が選ばれたんですか?」
  からん、溶けて崩れた氷が音を立てた。
 「さぁねぇ……実際のところは、分からない」
  オルビッチは、不可思議な表情を浮かべた。
  嫌悪や軽蔑、或いは憐憫と諦観。複雑な吐息をはきだして、笑う。
 「ただ、国にかかわらず……王族の結婚っていうのは政略だからね」
  それはどういう意味だったろう。


  一夜が明けた。
 サラはいつも通り、ノック二回で王女の私室を開ける。
 「失礼いたします。お早うございます、殿下」
  窓辺に下げた薄紗が朝陽を透かして爽やかに翻る。引けば、美しい朝の海が視界に広がった。夜明け
 前に漁に出た船が、次々と帰ってくるのが見える。
 「……まだ、寝る」
 「だめです起きてください」
  寝台の上、大きな枕に埋めた美貌が不機嫌そうに寝返りをうってサラの方を向いた。
 「寝たの遅かったのに……」
 「存じてますよ。わたしは殿下の侍女ですから」
  なので王女より遅く寝たサラは、しかし王女より早起きしなければならなかった。
  いいですけどね、お仕事だし。
  ドアまで持ってきていたワゴンを押して、身支度の準備を整える。洗顔用の水盆と、櫛と、朝のお茶
 はどうしよう少し暑いし冷たいのにしようか。
  婚姻の挨拶回りがあるから、ドレスは公式用ので、髪も結い上げなくては。ということは、少しいつ
 もより急ぐ必要がある。
 「はい、ご無礼をお許しください」
  言って、サフィニア王女がくるまるシーツを引っぺがす。
 「サラ……」
  嫌そうに唸られても、今日ばかりはしかたない。傷心の王女にゆっくり朝寝坊させてあげたいのは山
 々だが、そうもいかないので。
 「今日はご用事がたくさん入ってるんですよ」
 「ようじぃ?」
 「はい」
  聞きたくないだろうけど、
 「まずは貴族の方々へ挨拶にお伺いして、神殿の方にも行かなくてはいけませんし、ドレスの採寸と、
 ああ、帝国史諸々の先生もお見えになるそうですよ。ダンスの練習もありますし……花嫁修業に三月な
 いんですから、殿下お急ぎにならないと」
  おおまかに王女の乳母、侍女長のフェイから言い聞かせられた予定を連ねると、サフィニア王女は絶
 句した。
  そして、むっつりとこのうえなく不機嫌そうに眉根を寄せる。
 「……昨日の今日よ?」
 「時間がないんだそうです」
  わたしのせいじゃないし。
  気の毒だが、サラはサフィニアの主張を跳ね返した。
 「…………」
  サフィニア王女は憮然としたまま、はしたなくも寝台の上で胡坐を組む。
 「殿下」
 「……」
  膝に片肘をつき、手の甲に顎を乗せる。
  王女にあるまじき姿勢で、黙り込んでいたサフィニアはサラに目を向けた。
 「ねえ、サラ」
 「はい急いでください、殿下」
 「どうして私なのかしら」
  感情を削ぎ落とした声。
  王女の表情が不機嫌から小難しいものへと変わっている。
  もうこれは、一通り相手をしないと動いてくれないだろう。
  サラは溜め息をついて、王女に向き直った。
 「それ、昨日わたしの義父も言ってましたよ」
 「伯爵が?」
 「はい」
 「そう……」
  長い銀色の睫が、憂いを含んで瞬く。朝陽を反射して、まるで妖精の鱗粉が輝くようだ。
  寝乱れた夜着から胸元の肌が覗く。ふっくらと豊満な乳房は海の国に生きる者らしく健康的に色づい 
 て、少女らしい爛漫さと熟れ始めた女の色気を危ういバランスで露わにしていた。
  ふいに、王女は顔をあげた。
 「納得がいかないわ」
 「殿下?」
 「だってそうでしょ、理不尽よ、こんなの」
  それはサラだって思うけど。
  どうしようもないんだから、しょうがない。サフィニアも分かっているはずだ。
  サラは困惑した。
 「で……」
  殿下、と宥めるつもりだった。
  けれど。
 「だから私、決めたわ」
  夏の蒼穹のような瞳が色を増す。深くなる。
  まるでトルージアの海のように、強く輝きだす。
 「すべてに納得できない。こんなのはイヤよ」
  だから、と赤い唇が不敵に吊りあがった。
 「直接、皇帝自身に聞くわ。なんで私なのか」
  断言した、その口調。
  傲慢で高慢で誇り高い王女そのもの。そしてその、美しさ。
  サラは束の間見惚れた。
  高飛車に、サフィニア王女は細い顎を上げてサラを睥睨した。
 「ついて来なさい、サラ!」
 「いやです」
  サラは即答した。
皇帝に会うまでが予想外に長い……
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