間。
 「……」
 「……」
  爽やかな初夏の早朝、王女に相応しい贅をつくした品良い寝室にひたすら微妙な沈黙が僅かのあいだ
 流れた。
  聞こえなかったのかしら。
  サラは再度、落ち着いて口を開く。
 「お断り申し上げます」
  きっとサフィニアの眉が険しく跳ね上がった。
 「どうしてよっ! こういうときは、どこまでもお供いたします、って言うべきでしょ!?」
 「いえ、わたしは一介の侍女ですし。帝国の後宮なんて恐れ多い場所になんて、とてもじゃないけど行
 けません」
  いや、だって、ようやくトルージアに慣れたのに他の国になんて行きたくないし。
  居心地良くないってほぼ分かってるし。
  後宮って、一緒に入った侍女も外に出れないんじゃない?
  ていうか、主が寵を競うなら当然その侍女も努力せねばならないわけで。うわ無理。女の戦場に誰が 
 好き好んで行きたいか。
  野心があるならまだしも、塵ほどもないし。
  聞くに、皇帝の周辺ってとんでもなく危険そうだし。
  海辺の小国で、のんびり穏やかに平凡に過ごしたい。いままで散々苦労したんだからさ。
  ううわ、いやいや。絶対行きたくない。死んでも行きたくない。
 「ですので、殿下」
  サラはにっこりと微笑む。
 「我が国にはわたしより優秀な侍女が山ほどおりますので、彼女たちをお連れください。わたしでは、
 皇帝陛下や他の姫君方に侮られるだけでしょう」
  うん、絶対。
  サラは言い切ったことに満足する。
  しかし、サフィニアはきりきりと眦をつりあげた。聞いたこともないような低い声音が、可憐な唇か
 ら零れ出る。
 「……お前、ひとりだけ逃げる気ね?」
 「逃げるだなんて」
  あれ、この言い方って否定になってない?
  サラは暫し悩んで、言い直した。
 「微力ながら、遠いこの地で殿下の幸運をお祈りしております」
  よし、完璧。
  思ったのも束の間、乱れた銀髪の下から青い瞳がぎらりと光った。
 「……覚えてらっしゃい。絶対に楽なんかさせないから……」
  それはまるで呪詛のようでした。


  不覚にも、王女の不気味な脅しに慄いてから一日。
  忙しくなった王女の侍女であるからして、当然サラも多忙な予定をなんとか消費し、疲労した体を抱
 えて帰宅した。
  待っていたのは、困ったような面白そうな変な笑みを浮かべた義理の父。
 「ただいま帰りました、伯爵」
 「うん、お帰り、サラ。――ちょっとおいで」
  首を傾げつつサラは頷く。
  後をついて行く途中、荷物や日よけの薄紗を使用人に預ける。侍女ではあるけれど、養子とはいえ伯
 爵家令嬢なのだから屋敷に帰れば傅かれる立場なのだ。
  ちょっとまだ、慣れない。
  楽ではあるけど。
  お嬢様って呼ばれるのも、最初は禄に返事なんかできなかったし。
 「さ、お入り」
 「はい……?」
  伯爵の書斎は、いろんな書物やガラクタでごったがえしている。棚から溢れ、床に積みあがる本のタ
 ワー、つくりかけの船の模型、綺麗な羽根の昆虫の標本、優美に伸びたなにか大きな動物の角、色んな
 デザインのカフスとタイピン。
  まるで子供の部屋みたいだ。
  勧められて、ふかふかの長椅子に座る。
  屋敷中で一番大きな窓から、潮のにおいのする風が吹き込んだ。
 「さて」
  向かいに腰掛けたオルビッチの顔は、依然として複雑なまま。こんな彼は見たことがない。
 「伯爵……?」
  不安がよぎる。
  オルビッチは机の上から、小さな硝子瓶を引き寄せて開けてくれた。ぽってりとしたフォルムの瓶の
 なかには、彼がおやつ代わりにしている氷砂糖が入っていた。
  サラは首を振って断る。
 「なにか、あったんですか?」
 「うん……まあね」
  彼はひとつ摘まんで口に放り込んでから、嘆息した。
  変わり者だと人は言うけれど、深い知性の宿る瞳が労わるようにサラを見据える。
 「君が希望したものではないと知っているよ。分かっているけど、わたしに拒否はできない。だから、
 これは決定だと思って聞いてほしい」
  一息。
 「サラ、サフィニア殿下の侍女として、後宮に行ってほしい」
  サラは絶句した。
  オルビッチは呆然としたサラの視線を受け止めて苦笑する。
 「うん、驚いただろうね」
 「お……」
  驚いたも、何も、
 「なんですかそれ!」
  サラは思わず立ち上がった。
 「嫌です、なんですかそれ、嫌です!」
 「うん、そうだね」
 「他の人が行くことになってたじゃないですか!」
 「そのはずだったね」
 「だって後宮ですよ、後宮! 絶対嫌がらせとか嫌がらせとか嫌がらせとかあるに決まってるのに!」
 「そうだねぇ」
 「毒殺とか暗殺とかっ! 危ないじゃないですか怖いですいやです!」
 「うんうん」
 「そっ、それに! 殿下は嫌々行くんですよ! なのになのに、そんな殿下の側にお仕えなんかできな
 いですってば!」
 「そのとおりだね」
  それから? とオルビッチはいっそ優しげに首を傾げる。
 「そ、それから……」
  怒鳴りながら肩で息をするサラは、へなへなと椅子に腰を落とした。
  額を押さえて、唸る。
 「……もう、決まったんですね?」
 「うん」
 「変更できないんですね?」
 「うん」
 「…………そうですか」
  ぐったりと、盛大な溜め息を吐き出した。
  これはおそらくサフィニア王女の差し金だろう。
  疲れた。
 「……お食べ、落ち着くから」
 「……はい」
  上体を起こせないまま、サラは氷砂糖の欠片を口に含む。ひんやりとした控えめな甘さが、舌を優し
 く癒した。
  俯いたまま、呟くように言う。
 「殿下はきっと、後宮で傷つくと思います。……見たくないんですよ、そういうの」
  後宮は女性が圧倒的に弱い場所だ。
  ただ一人の男によって、傷つけられる。
  サフィニア王女は耐えられるだろうか。側に仕える、自分は?
  そっとサラの隣に温もりが寄り添う。
  懐かしい気配だ。
 「サラ」
  肩に回った腕は、記憶にある父のものより短いが、同じくらい頼もしく慕わしい。
  ただ、父よりも母よりもふっくらしているけど。
  くすりとサラは小さく微笑った。
 「行きます」
 「……うん」
 「また、この家に帰ってこられるでしょうか」
 「そうであることを願ってるよ」
  後宮、皇帝、帝国。
  それはどんなところだろう。
  何が待っているだろう。
 「準備しなくちゃ……」
 「美味しいものいっぱい持たせてあげるね」
 「いりません、太ります」
  微かな細波にまぎれて交わす会話は途切れがちだが、温もりが遠ざかることはない。
  まるで出会ったころ、心細さに泣いた夜と同じように、サラは義父の慰めを受け取った。
 
ちょっと短いけど、あっさりと。
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