輿入れまではあっという間だった。
  三月でも、まだ足りない。あらゆる意味で。

  夏真っ盛りの爽やかに晴れた日、サフィニア王女は純白のドレスを纏い、王宮のテラスに立った。
 「姫さま……」
  ひっそりと控えたサラの横で、感極まったサフィニアの乳母が涙を堪える。
 「大きくおなりになって……」
  そして、この三月で嫌というほど繰り返された懇願を、またされる。
 「いいですか、サラ。しっかり姫さまを支えるのですよ」
 「はい、心得ております」
  繰言にうんざりしてはいけない。ここは毅然とした笑みを浮かべて頷くところだ。
  だって説教されると多分長いし。
  サラは笑顔の下でそんなことを考えていた。
  乳母のフェイはひょっとしたらサフィニアの母、ハンナ王妃よりも今日というこの日に感激している
 ので。
  呼び方だって「殿下」から幼少期の「姫さま」に戻っている。
  やはり、こんなときに思い浮かぶのは亡くなった母だ。
  サラが結婚するときも、こんなふうに感動してくれただろうか。
  ――ていうのは、まあ考えてもしょうがないから置いておいて。
  夏の太陽を受けながら国民に手を振るサフィニア王女は、サラがこれまで生きてきたなかで何よりも
 美しかった。
  海辺の国らしく、胸ぐりと肩を出したドレスはなめらかなサフィニアの肌をことさら際立て、陽射し
 が弾けるように煌く。
  ドレスはサフィニアの好みからフリルとレースは控えめだが、代わりに精緻を尽くした刺繍がほどこ
 されている。純白の布地に濃淡のある銀糸の刺繍は、サフィニアが優雅に手を振るたびに美しく浮かび
 あがっては人々の溜め息を誘った。
  なによりも、サフィニア自身の瑞々しさといったら。
  国民に精一杯こたえる笑顔、そして輝く銀髪は真っ青なトルージアの誇る大海の色を映したように時
 折群青に輝いた。
  サラは思わず吐息を零す。
  感嘆からではない。
  いや、ある意味ではそうなるか。
  あのサフィニアはとても、結婚を嫌がる花嫁には見えない。驚きの演技力だ。
  ――まあ、陛下や王妃さまあたりは見抜いてらっしゃるんだろうけど。
  でもそのご両親とも、今日が最後だ。
  サフィニアの隣で微笑んでいる陛下と王妃を視界に入れてから、サラはそっと瞼を伏せた。
 「フェイさま、この後の準備もありますし、先に下がらせていただきます」
  フェイは虚をつかれたように瞬きし、夢から覚めたように頷いた。
 「え、ええ、そうだったわね。お願いしますよ、サラ」
 「はい」
  深く頭をさげて、退室する。
  一歩部屋の外へ出ると、途端に熱気がひいていくようだった。
  ドアの傍らに控えていた衛兵に会釈して、サラはゆっくりと回廊を進んでいく。海辺の気候は厳しい。
 特に、夏の暑さは。
  そのせいだろう、城のつくりは非常に風通しがいいように、壁や塀で囲むのではなく開放的な回廊な
 どが多かった。
  だから、どこにいても大抵は海が見える。
  潮風が中庭に植えられたオレンジの葉を揺らす。
  正確には、日本の――あちらのオレンジと同じものではないようなのだけど。形も違うし。けれど、
 色と味は酷似している。
  実のなるころにはこっそりもいで、隠れて食べるのがお気に入りだった。
  あちらにも、この木はあるだろうか。
 「考えてもしかたないか」
  さて、一足先にサフィニアの部屋に戻って、当座の荷物の確認をしよう。
  今日は国民に挨拶をして、その後は花嫁衣裳のまま城を出る。
  ――輿入れだ。
  両親と別れを惜しむ時間があるだろうか。帝都までの旅程を思えば、そう引き伸ばす余裕もない。酷
 だがすぐに出立することになるだろう。
  せめて早めに準備を終わらせておけば、少しくらいは時間もとれよう。
  大物の荷物は必要ない。
  茶器と、化粧品一式と、着替え、靴、宝石類も多少持って……やはり嵩張るのはドレスの類か。途中
 までは国民たちに姿を見せなければならないので結婚パレードのようなものだし、落ち着いてからだっ
 て貴族の屋敷などに宿泊するのだから晩餐会もある。なにより、帝都に入ってから侮られないよう、そ
 れなりに装わなければ。
  とすると、そうそう着回しするわけにもいかない。
  想像するだけでも疲れそうだ。
  でも、矢面に立つサフィニアほどでもないか。
  後は暇つぶし用に本でも適当につめておこうか。主に自分用に。
  心中でリストを確認していると、柱の影からひょいと見慣れたシルエットが現れた。
 「サラ」
 「伯爵」
  今日はさすがに正装を着用したらしい。家令に無理やり着せ付けられたのかもしれない。
  オルビッチは整えた口髭の下で微笑んだ。
 「今朝、ちゃんと話せなかったからね」
 「だから来てくれたんですか?」
 「君はわたしの娘だよ?」
  おどけた口調に、サラも笑みが零れる。
  二人並んで、歩き出した。
  オルビッチがしみじみとサラを見て、感心する。
 「綺麗だよ。普段からそういう格好をすればよかったのに」
 「ありがとうございます」
  でもそれは、身内贔屓ってやつだ。
  今日のサラはいつものように地味な服装ではなく、ある程度華やいだ、けれど侍女らしく控えめなド
 レスを選んでいた。
  水色のシンプルなドレスは、暑いのでやはり襟ぐりと肩があいている。サフィニアのように豊かな谷
 間があるわけではないので、露出度は少ないほうだが二の腕から先はばっちり出している。だってプル
 プル二の腕を見せられるのって、若いうちだけだし。
  そのかわり薄紗のショールを肩にかけ、生肌は見えにくくしているけど。
  薄布一枚だけでなんという安心感。
 「もっと派手なのでもよかったんじゃないの?」
 「これで充分ですよ」
  フリルもリボンもレースもないけれど、上品なラインと歩く度に軽やかに揺れる裾は気に入っている。
  確かに侍女とはいえ貴族の子女なのだから着飾っても誰からも文句は出ないだろうし、むしろ王族の
 侍女はそうあるべきなのだが、あんまり綺麗なドレスを着ると汚しやしないかと冷や冷やするのだ。
  まあ、今日みたいに髪飾りくらいはつけてもよかったかな、と思わないでもない。
  三つ編みにしてまとめた簡素な髪に飾った、真珠のバレッタをサラに何気なく触れた。オルビッチが
 誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
  何故今日に限って着飾っているのかというと、花嫁姿のサフィニアに付き添って国民の前に姿を見せ
 なければならないからだ。
  隅で縮こまっていればいいのだが、まさか輿入れに目一杯着飾った花嫁の横に貧相な格好で並ぶわけ
 にはいかないじゃないか。
  ああ憂鬱。
  オルビッチが横目でサラを見て苦笑した。
 「まあ、頑張りなさい」
 「仕事ですから」
  ある程度は。
  お給金高いし。
  貯まったら旅行に行こうと思っていたのに、後宮に入るのではその機会があるかどうか。
  ふと、オルビッチが立ち止まった。
 「伯爵?」
 「サラ」
  優しく手をとられる。
 「覚えておいで。わたしは君の義父で、君はわたしの娘だ。わたしは君の味方だよ」
 「……はい」
  ぽん、と温もりが手の甲を叩く。宥めるように。或いは、勇気づけるかのように。
 「月に一度は手紙を必ず書くこと。何かあれば、必ず言いなさい」
 「はい」
  いったい何度、どれだけ、この人に助けられただろう。
  救われる、という意味を初めて実感したのはこの人に会ってからだった。
  何も持たない、何もできない異世界の小娘に、温かいお風呂とご飯と寝床と教育と、安心と信頼をく
 れた優しい人。
  会えてよかった。
  目尻に滲む涙を誤魔化すために、サラは微笑んだ。できるだけ、いつものように。
 「行って参ります、伯爵」
 「お父様って言ってくれていいのに」
 「いやですよ」
  父さんならまだしも、そんなお嬢様みたいな言い方恥ずかしい。
  オルビッチは愉快そうに笑った。
 「行っておいで、サラ。あるだけの幸運を、君に」
やけに伯爵出張な。気に入ってるのか私。
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